社会福祉法人 わかくさ福祉会 〒569-1136 大阪府高槻市郡家新町48-2  TEL 072-695-5566 FAX 072-695-5579

つぶやき2

管理人の我輩が、日々感じたことを気ままにつぶやくページです。

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           私がホームの管理者です  
ほっこりする癒し話・クスクス吹きだす話・小さな暴露話・政治への怒りをネタにぼやきます。
★時間と心にゆとりがある方だけ覗いてくださいね。どうでもいい話ばっかりです★
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2026年2月6日

  • わかくさの歴史・・障害福祉制度の大転換・・・・荒海に投げ出されても
    1995年、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件がありました。
    この年、いわゆる95年勧告(社会保障審議会)が出てきました。措置から契約へ、地域福祉の拡充、福祉の市場化です。
    この勧告に基づき、2000年に介護保険制度施行されます。
    福祉分野に営利企業が参入し、サービス産業として、儲けの対象になりました。
    税から保険制度への変更は明らかに公的責任の後退です。
    2001年には、小泉内閣が誕生し「聖域なき構造改革」を打ち出し福祉の基礎構造改革(改悪)も一気に加速しました。
    無認可作業所づくりに手をだして約30年、それまでの障害者、家族、事業者を取り巻く状況がこれまでの延長戦での変更や修正ではなく土台から大転換されたのです。
    障害者分野においても2003年の支援費制度の施行により利用契約制度になります。
    支援費制度は制度設計の甘さが露呈し2年で破たん。支援費制度の反省を踏まえ2004年には障害保健福祉を全面見直すグランドデザインが提示されます。
    この提示にそって、2006年には、これまでの施設体系を全面見直して新たな事業体系(障害者自立支援法)が登場します。
    自立支援法は、利用者にとっては、これまでの負担の能力応じて支払う『応能負担』から受けた支援の質量によって支払う『応益負担』になりました。負担が重く自殺者まででて『自立支援ではなく自殺支援』と言われました。
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        2009年10月29日 東京日比谷音楽堂に1万人が集結
    全国各地で反対運動がおこり2008年には訴訟に発展し原告の勝利、国は自立支援法は廃止し新法を制定することになりました。
    しかし、新法(障害者総合支援法(2013年))は応益負担こそ見直したものの、自立支援法の骨格はそのままです。
    事業者にとっては、自立支援法ができるまでは月払いだった収入が、サービスを提供した対価の報酬として日割りでの収入になりました。収入が不安定で人材不足に波及しています。法人格さえあれば事業に参入できるように市場化もすすみました。放課後デーサービス、グループホーム、就労支援A型などで悪質な事業者の実態が報道されました。報道は氷山の一角にすぎません。
    これまでの、利用者も家族も職員もみんなで力合わせて共に頑張ろう!ではなく『支援(サービス」の売り手』と『支援(サービス』の買い手』に分断された契約関係になったのです。
    時代の荒波に負けるわけにはいきません。良識ある関係者、国民が本来の福祉を取り戻す、あたりまえの福祉を実現する力を、地下のマグマのようにためこんで爆発する日をまっています。
    どんな時代が来ようとも、どんな制度になろうとも、わかくさは『共同』をいついつまでも守り抜きたいと思います。

2026年2月5日

  • わかくさの歴史・・グループホームづくり
    わかくさのグループホームは1997年から始まります。
    それまでの、昼の活動をさせる事業から24時間の生活を支える一歩です。
    グループホームの開所を目標にしてから5年間かかりました。
    1992年から委員会を立ち上げてはぼ毎月開催し、宿泊訓練(郷の家(三島の郷))や、金剛コロニーが運営しているホームの見学などを行いました。
    開所に向けての資金づくりもかねて、1997年2月には『現代国際巨匠絵画展』を4日間開催ました(於:ホテル幸生殿)。
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      グループホーム第1号です。       南から撮影 手前は電車の線路
    仲間達の自立への熱い夢を乗せて念願のグループホーム第1号は阪急富田駅の近く一戸建てをお借りして4月から男性4名で始まりました。初めは、みんな旅行気分だったようです。「親なき後」ではなく「親が生きている時から」安心して暮らせる場のスタートです。
    当時、グループホームは世間にあまり知られていません。不動産会社に物件探しにいくと必ず、障害を持つ人が数名で暮らす場という事で火事は大丈夫か?近隣とトラブルにならないか?など言われました。ボランティアの方の持家の紹介もあり、その年には、2箇所目、さらに1999年には3箇所目が開所しました。実際に運営がはじまると入所希望者が増え4箇所、5箇所と増えてきました。
    一方で、賃貸の建物では広さ設備など障害が重い人を受けとできないため、2005年わかくさ南障害者作業所の隣接地に障害に配慮した広さ、設備をもった新たにグループホームを建設しました。
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           わかくさが初めて建設したグループホーム 2005年

2026年2月4日

  • わかくさの歴史・・わかくさ南障害者作業所の建設にむけて
    入所(通所)を希望する人を受けとめる場として無認可作業所の第4作業所、第5作業所を運営してきましたが、それでも足らず、1998年を目標に認可施設に移行する計画で準備をすすめ高槻市と何度も要望を繰り返し協議を行いました。
    しかし、前進を見ることできませんでした。当時は認可施設建設には高槻市の決定が必要だったのです。第4作業所も第5作業所ももともと古い建物です。風向きによっては雨漏りが当たり前で、朝から床の水の吐出しや室内にシートを張って防いだこともありました。
    また、1995年には阪神大震災もあり危険と背中あわせです。
    どうしても、高槻市の決定を引き出すために、1997年には毎週水曜日の朝、市役所前に集合し出勤してくる市の職員さんに向けて『認可施設実現を高槻市は決定をして下さい』と職員と家族でビラまきを始めました。
    ビラまきが終わると必ず担当課を訪ねて挨拶をします。いつも、挨拶だけで終わるのですが、ある日呼び止められました。『なんとかしたいと思うのでビラまきはやめて欲しい。地域的には高槻市の南部で計画して欲しい』でした。正式決定は後になるのですが、一気に動き出しました。
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後は、土地と建設費の自己資金です。
土地探しのために地域にビラは配布し情報を求めたり、不動産業者へ依頼したりして、いくつかの候補も出てきましたが、地域、近隣との調整がつかず二転三転し、現在の場所(旧よどがわ市民生協組合配送倉庫跡)になりました。
自己資金は、毎週1回の街頭カンパや店舗への募金箱150個のお願いや募金活動、これまでのバザーや祭りに加え、映画会(1998/07)(どんぐりの家)の上映や夢いっぱいコンサート(1999/03)(わらび座公演)などの事業活動を展開しました。年中何かを取り組んでいる状態でした。
当時の資料をみると、わかくさ施設をつくる会(後援会)は、事務局会議は毎週夜に開催しています。
後援会組織は作業所づくり委員会、広報委員会、事業委員会、生活の場委員会、組織・レク委員会が設置され職員、家族、仲間で構成毎月1回開催されています。
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    つくる会総会(後援会)の開催後は懇親会を行っていました
組織レク委員会のページには、会議だけでなく花見のつどい(焼肉、焼きそば、焼き鳥)54名。総会後の懇親会(焼肉、焼きそば、やきうどん)71名。秋のレク(餅つき、豚汁)67名。おやじの会12名。とあります。忙しいからこそみんなで楽しんでいました。おやじの会は、父親を運動に巻き込む狙いで初めた酒飲み会でした。結果は酒のみの会とわかくさの事業活動は一致しませんでしたがそれなりに楽しかったようです。
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         わかくさ南障害者作業所 北側から撮影
2000年4月にわかくさ南障害者作業所が開所し無認可作業所わかくさ第4・第5・第6共同作業所が移行しました。わかくさ第4共同作業所を開所して9年目、認可施設わかくさ障害者作業所が認可になって15年目です。

2026年2月3日

  • 大人の節分
    わかくさの歴史はひと休み。
    今日は節分だ。
    数日前、スーパーのお酒売り場で『大人の節分』と書いたポップがあった。
    のぞいてみて笑った。
お酒.png

恵方呑み・・①お酒を杯につぐ。②その年の方角に向かって③願い事を思い浮かべ④静かに飲む。だった。
きっとお酒の関係者の発案だろう。
巻きずしは、店舗での食品ロスが問題になった。最近では予約制が増えてきたそうだが、日本酒なら食品ロスはない。
今夜は恵方呑みで大人の節分を楽しもう。と思ったが・・・
願いごと・・ヒラメキません。年ですかね。

『竹泉」兵庫県朝来市の地酒 
遠方から名酒を求めて酒蔵まで来られるそうです。
種類が多すぎて説明を聞いてもどれがいいやらわかりません。結局値段でで選びました。

2026年2月2日

  • わかくさの歴史 地域の夏祭り 渡り歩き
    無認可時代から地域の夏祭りには参加。夏はテキヤさんになっていました。
    認可後しばらく後援会活動はしぼんでいましたが、わかくさ第四共同作業所や第五共同作業所づくりなど無認可作業所づくりと同時に活発になりました。
    認可7年後の1992年のニュースを読んでみると・・・・
    富田団地祭り2日間。芝生団地祭り2日間。総持寺団地祭り2日間。高槻祭り2日間。ひむろこだま保育園祭り1日。サンヴェール祭り1日。ふれあい広場映画と夜店のつどい1日。と7月末から8月第3日曜日まで毎週夜店をだしていました。同じ日に2箇所もあたりまえです。さらに、年を重ねるたびに川添、柱本団地、竹内、中阿武野、西阿武野と広がっていきました。
    一度に30玉焼ける焼きそば用鉄板の特大も鉄工所で制作しました。
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        特別仕様の鉄板で焼いています    大当たり 千本引きです
    一晩で600玉も焼く時もありました.
    綿菓子の機械もガス式のものをこの頃購入しました。
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            綿菓子は熟練の技が必要です

2026年1月30日

  • わかくさの歴史・・一泊旅行・・・実は慰安旅行だったのです。
    1990年代のわかくさは、第4作業所、第5作業所と次々に作業所が増え、仲間の人数も100名近くになってきました。
    法人全体では運動会、夏祭りを行い、事業所や地点の単位などで忘年会などを行うようになりました。
    とりわけ仲間の一泊旅行は楽しみな行事で、わかくさで働く、仲間、職員の慰安旅行です。観光バスの中は、出発するやカラオケルームです。宿についても歌手になりきって熱唱です。宴会はもちろんアルコールありです。みんなでビールを注ぎ合っていました。
    いつも、ウイスキーを一瓶持参してくる仲間もいました。不思議にも酔っぱらう人は特別な人を除けばいませんでした。
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           観光バス 車内 まもなく出発です
    観光バスだけでなく、電車の旅行も挑戦し金沢・山代温泉まで行った時もありました。
    行先も、観光地もあればキャンプにいく事もあり、作業所で明るく働いている仲間がみんなそれ以上の笑顔をいつもみせてくれました。
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    この日は、お父さん、お母さんにとっても特別な日だったようです。
    仲間が家にいない日は殆どありません。わかくさの一泊旅行は子育て?から解放される特別な日です。この日を利用して親睦旅行。子供以上に前日からソワソワ(服はどれをきていこうか?小遣いは?・・・・)だったそうです。
    この時代、短期入所を行なっている事業所は少なく、また、緊急時以外利用できませんでした。

2026年1月29日

  • わかくさの歴史  わかくさコンサート 
       ~障害者と共に暮らせるわたしたちの街に~
    1992年12月6日 北部センター合唱団とともにコンサート開催しました。
    わかくさの仲間達、おかあさん達が舞台で8曲も合唱する文化行事です。
    これまでのわかくさらしくないイベントで初めての経験です。
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               みんな 超かっこいいですね
    1部 北部センター合唱団 と 武藤俊介チェロ演奏会
    2部 わかくさ いのち光るとき 合唱団(全8曲)
         たんぽぽ ドレミの歌  手のひらを太陽に
         合唱組曲 『いのち 光るとき』
    コンサートに向けて、熱い夏の頃から毎週水曜日には仲間を中心に歌の練習を行いました。さらに、第3日曜日は合同レッスンを行いました。
    不安だらけで始めた取組でしたが高槻文化ホール600名が満席になりました。
    場内は立ち見のお客さんもあり、大きな、大きな拍手が響きわたりました。
    当日の様子は関西テレビの取材もあり夕方のテレビで放送されました。
    コンサートを終えて、家族の声では、(当時のわかくさニュースには)
    『練習も盛り上がりいよいよコンサート当日は、みんなの心が通じ合いお客様側と主催者側が一体となりすばらしい成果に終わりました。・・・・聞きにきてくれた日頃無口な主人が「よかった」と一言。言ってくれました。』
    また、『私も子どもと一緒に歌に参加させてもらいましたが、「生きて。生きて、仲間の大きな輪をつくろう」と唄い終ったとき大きな感激で胸がいっぱいになりました。』などの声が寄せられました。
    市民の方々からも、感動、感激のお手紙も頂きました。
    また、1994年2月には、『きょうされん列島縦断コンサート』ダ・カーポふれあいコンサートを現代劇場大ホールで開催しました。前売り一般3500円:障害者3000円のチケットが1469枚現金化され会場の1500席はすべてうまりました。カンパも当日37万円がよせられました。
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       合唱組曲 『いのち 光るとき』
        ♪なかまの笑顔はすばらしい♪
      ようこそ作業所へ
      ようこそ せまくて小さな 作業所だけど
      ここは 仲間の
      仲間の なくてはならない 生きる場所
      ごらん下さい 仲間を 働く仲間の笑顔は
      仲間の 笑顔は すばらしい


       当日のパンプ

2026年1月28日

  • わかくさの歴史 恒例の夏祭り ある年には
    お盆休み前の恒例行事は夏祭りです。
    盆踊りあり、夜店あり、ゲストによるマジックや吹奏楽、仲間の歌あり。毎年担当職員が知恵を出し合います。
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    ある年には、日本舞踊、や太鼓、河内音頭連もありました。
    わかくさの仲間、家族はもちろんですが、近隣地域にも綿菓子無料券などを配布し多くの親子づれが集い地域の子供たちにも喜んでもらえる行事です.
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           夜店は、地域の子供さんたちでにぎわっています
    隣接している今城塚古墳は今でこそ整備されていますが以前は森でした。
    周囲の堀にはヘラブナが生息し多くの釣り人が朝から夕まで釣り竿を伸ばしていました。ヘラブナだけでなく、子供たちのアメリカザリガニの釣り場でもありました。
    ザリガニ.jpg
    ある年、わかくさ夏祭りで子供たちにザリガニ釣りをさせるとザリガニをいっぱい捕獲してきました。ところが、朝になると全滅していました。ザリガニがかわいそう!
    捕獲してきた職員もかわそうな目にあったのですが・・・・周囲は笑っていました。
    厨房のゴキブリ等を駆除する害虫駆除オゾン発生装置の効力です。
    あきらめきれない担当職員は、再度ザリガニを捕まえてきてザリガニ釣りを決行しました。子どもたちの笑顔に担当職員は救われてようです。
    恒例の夏祭りでしたが、新型コロナ禍によって中止。さらに、最近の猛暑の影響もあって、作業所によっては秋祭りに変更したり、室内での行事になってきました。


2026年1月27日

  • わかくさの歴史 わかくさ第五共同作業所づくり
    毎年、高槻養護学校の卒業生は30名以上。茨木養護学校からは10名弱が卒業し10名は高槻市立つきのこ学園に入園できるものの、そのつきのき学園から5年間の年限で10名が卒園してきます。一般就職できる人は少なく、毎年40名近い人は今ある施設に入れず新しい施設が必要です。
    高槻市は、つきのき学園から毎年10人がスムーズに卒園できるように、また養護学校の卒業生の進路の課題を受けとめ、無認可作業所建設するための補助金制度を他市に先駆け設けていました。建設費は上限1000万円の7割補助。設備費は上限400万円の5割補助です。作業所づくりは自己資金500万円が必要でした。
    この補助金制度によって、わかくさ以外のあらたな作業所も広がりました。
    わかくさは、1991年にわかくさ第四共同作業所を開所したものの1992年の入所希望者全員を受け止めることはできません。
    あたらしい作業所をつくって欲しい!という切実な願いを受け、2年つづけて新たな作業所をつくる事になりました。
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           わかくさ第五共同作業所 外観(南東より)
    前年の第四共同作業所づくりの経験もとに、さらに発展させてバザーを年2回開催するなどして自己資金をつくり、1992年4月にわかくさ第五共同作業所を西五百住町の古民家を改装してで開所しました。
        画像の説明
             開所式 1992/4/4
    同1992年には、分場施設が制度化され、これまで無認可作業所として運営してきた『みつばち共同作業所』を建物も人も全く同じままですが、わかくさ障害者作業所の分場施設(知的通所授産 15名)に変更しました。みつばち作業所は岡本町に1985年に移転後から34年後2019年の同場所で建替え現在に至っています。
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       こんな建物でした 右手前が入口 入ると広い土間  左奥には土蔵 
    わかくさ第五共同作業所もわかくさ南障害者作業所が2000年に開所するまで8年間お世話になりました。

2026年1月26日

  • わかくさの歴史 後援会再起動 わかくさ第四共同作業所づくり
    1990年12月16日 わかくさ施設をつくる会の発足総会が開催された。
    わかくさ共同作業所づくりをすすめる会を発展解消し後援会の再出発である。
    新たな作業所を開所するための建設募金500万円を目標に活動が始まった。
    1月~3月の日曜日に西武前で街頭カンパ。団体訪問で募金の訴え。さらに募金箱の設置や物品販売、バザーなどで建設募金をお願いした。久々のバザーは、2日間で180万円の売上だった。
    作業所の場所さがしも苦労したが、子供さんが入所予定だったお母さんの勇気ある飛び込みの訪問で古曽部町の湯浅学園の教室をお借りする事ができた。
    (湯浅学園は湯浅電池の企業内高等学校でその頃は役目を終え教室はバレー教室などに賃貸していた。)
    1991年4月から改装工事が始まり6月2日大雨の中約100名の方々にお集まりいただき喜びの開所式を行った。わかくさづくり運動の再起の一歩だった。
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        わかくさ第四共同作業所開所式 1991/6/2    湯浅学園校舎
    わかくさ南障害者作業所が2000年に開所するまで9年間お世話になった。

2026年1月21日

  • わかくさの歴史・・思い出に感謝
    先日(1月13日)わかくさの歴史を語るには欠かせない母子寮跡時代の方々に集まっていただいた。50周年記念詩づくりに向けての2回目の座談会である。
    建築でたとえるならば、日曜作業所を始めた方々は基本構想を作った人。
    文化住宅時代は基本設計。母子寮跡の時代は実施設計、そして土台、基礎を作った人たちだ。集まって頂いた方々の中には、仲間の代表(最初)の鳥本さんをはじめ日曜作業所時代からかかわっていた人も多数。
    50年前、10代後半から20台前半の青年達。青春をとっぷり、わかくさとともに生きた面々だ。
    バザーは夜遅くまで週2回ビラ配り、休日は、町内の筋ごとに2名で張り付いて仲間、家族とともに筋の終点まで個別訪問。一筋終われば次の筋が待っている。何でも頂いき、山となった品物に一品ごとに値段をつける作業に追われたこと。
    カレンダー販売では1万本売るために、リヤカーを引きながら1軒1軒訪問した事や母校の高校を訪ねて在校生に購入をお願いしたこと。
    廃品回収は訪問先名簿を見ながら一軒一軒毎月回る。同時に署名の時は署名を、カレンダー販売の時はカレンダーのお願いするなど絶えず抱きあわだった事。毎週の日曜教室の思い出などなど・・・・語っていただいた。
    そういえば、盆と正月以外わかくさは年中開所し休みはなかった。職員もボランテイアも余程の用事か病気でなかったら集まった。よる遅くまで!若かった。
    とても、とても、文字では書きつくせない。
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        50年前とほとんどおかわりの無い方もいれば・・・の人もいる
         言葉を交わせばみんな50年前とおかわりありませんでした
    集まって頂いた方々の活躍が、わかくさの無認可の経営を支え、地域の中にわかくさを根付かせ、行政を動かし、認可施設が実現した。
    わかくさの土台、基礎をつくった人々に感謝である。
    あの頃を仲間と共にふりかえれば青春が戻る。思い出に感謝。

2026年1月20日

  • わかくさの歴史・・・若葉マークが外れる頃
    1985年、認可施設実現から4~5年は若葉マークのノロノロ運転が続いた。
    新たに養護学校の卒業生から入所希望があっても、わかくさが新たな無認可作業所を開所することは到底できない相談だった。
    自前の作業所が無理なので作業所作りを支援するのがやっとのことだった。
    投げ出したい、引き取って欲しいと!ある法人の幹部の方に相談したとき、『せっかく苦労しての法人、いつでも相談にはのるので頑張れ!』新しい職員の前では、昔はこんなに頑張った。昔のように・・・は言わないように。昔話は昔の人たちだけでやりなさいと助言をいただいた。
    一方、日々の施設運営は、仲間たちは元気に通い、授産事業(仲間たちの仕事)も順調に軌道の乗り充実してきた。
    各班ごとの家族との懇談会も定期的開催。保護者会も活発なってきた。
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                もちつき大会  忘年会
    行事も一泊旅行、夏祭り、運動会、忘年会、新年会、などもこの頃から始まってそれなりの形がついた。
    初心者運転も経験を重ねればそれなりに運転できるようになる。というよりも時間が必要だった。1990年からはバザーが再開。翌1991年からは年2回開催するようになった。
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       わかくさバザー 場所をわかくさで開催するようになりました。

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             バザー荷物を屋上にあげています。
    1991年にはわかくさ第4共同作業所が古曽部町で無認可で開所する。
    こんな経験から、行き詰まった時は、王道をいくと学んだ。
    わかくさの歴史というより自叙伝になっている。

2026年1月20日

  • わかくさの歴史・・胴体着陸。若葉マークの施設運転(運営)が始まった
    認可施設の実現はできたものの、無認可時代とは全く違う世界が始まった。
    わかくさ障害者作業所 認可 知的 30人
    ○わかくさ第2障害者作業所 認可 身障20人
    ○みつばち共同作業所 みつばち 無認可 15人
    このまったく制度が違う3施設を仲間、家族、職員にとって公平に一体的に運営することにした。
    いままでの無認可時代、わかくさは利用料を徴収していなかったが、認可施設は世帯の収入によって行政に支払う負担金が必要なった。そのため、みつばち(無認可)の人からも利用料を頂くことで揃えることにした。また、給食費は制度として知的施設は措置費に含まれているので無料だったが、身障施設や無認可施設は提供義務もなかった。同じ給食を食べるので当然費用が発生する。知的施設の人だけ無料でいいのか?となった。
    負担金、利用料の問題は、利用者、利用者家族の同意、納得があって初めて実現できるが、開所と同時にあらたに多数の仲間、家族が加わり説得には困難を極めた。
    また、財政問題も大きな課題となった。施設建設時の借入金の返済資金。そして、無認可(みつばち)の運営費、特に認可職員と同等にした職員の給与の財源。
    借入金の返済や無認可施設の運営は自主財源なしではなりたたない。
    1985年、認可施設開所に合わせて労働組合が結成された事が引き金となって、資金づくりの事業は、仕事か?自主的な活動か?とか、お金を作るのは経営者の責任だという極端な主張まで飛び出した。
    これまで、バザー、カレンダー販売など毎年1000万円以上作り出してきた事業が尻すぼみになり財政的に困難を極めた。
    いまさらながらではあるが、当時の労働組合大阪委員長は、わかくさの組合結成祝賀会で『バザーなどで福祉が守られるのは間違い。行政の責任だ』と言い放った。その言葉に間違いはないが、バザーなど地域市民を巻き込んで、その支えで行政を動かしやっとつかんだ認可施設、『わかくさ』関係者の祝賀会で言うとは何事ぞ!怒りとともに失望した。いまさらながらであるが・・・やっぱり書いてしまった。
    わかくさ初代所長は、組合を作るために施設を作ったのではない。と憤慨していた。
    以前にも記したが、認可施設の職員に支払ったボーナスを回収して無認可職員のボーナスに回した事もあった。
    みつばちの建設の自己資金分の隠れ借金も返済のめどはなかった。
    法人運営、施設運営も初めての経験でなにが正解か?も理解できないまま、予算、事業計画、決算、事業報告はもちろん、日々の事務作業も試行錯誤の連続だった。初めても大阪府の監査も何を、どの様に準備すればいいのかわからずドキドキだった。
    飛行機が車輪も出せず、胴体着略で傷だらけ。若葉マークの施設運転(運営)が始まった。

2026年1月19日

  • わかくさの歴史・・みつばち作業所 移転後運営始まる
    1985年12月の城内町(文化住宅)から岡本町に移転した。
みつばちパンフs.jpg

新築(プレハブ)2階建で延べ床面積約216㎡、定員15名。知的障害者授産施設と遜色ない広さだ。
認可施設わかくさにはない職種(授産科目)を行う作業所にした。
1階が陶芸工房。2階が手織り工房。仲間にとっては今までに経験したことのない仕事である。
みつばち作業所は国の制度変遷もあり、1992年からは、わかくさ障害者作業所の分場施設(定員15名)になる。さらに、障害者自立支援法(現総合支援法)の施行によって2007年からは、生活介護事業所に、2019年には同場所にて建替え現在に至っている。
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    手織り・縫製品 商品

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            作業風景 手織り
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                  作業風景 陶芸

2026年1月17日

  • わかくさの歴史・・認可施設になって 仲間の仕事
    母子寮跡の広さ3倍の作業室でいろんな事に挑戦できる条件が整った。
    近年の作業所では、農福連携、パソコン、食品加工、アートなど世の中の動きに合わせて様々取組が各地で行われている。
    40年前、試行錯誤しながら仕事おこしにどこの作業所も挑戦していたが、多くの作業所では、縫製、下請け作業、陶芸、手織り、印刷、木工などが多かった。
    わかくさでも、印刷、縫製、手織り、陶芸、そして無認可時代からの下請け作業から始めた。2期工事完成時には全国的にも珍しいプラスチック成型に挑戦した。
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            150tのプラスチック射出成型機
    下請け作業はともかくとして、職員自身がその道の技術を取得する必要がある。
    さらに、手織りや、陶芸、縫製などの自主製品は作るだけでなく買ってもらって初めて仕事になる。営業、販売の能力も必要になってきた。
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                 縫製作業室

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  打ち出されたハンガーがベルコンで流れます。   オフセット印刷機
印刷になると、完璧な仕上がりと見積もりもできないと商売にならない。
ある時、少年スポーツ大会のメンバー表を印刷する仕事を頂いた。
当時、パソコンはまだない。版下は、タイプ、写植の時代で外注。
印刷、製本も出来上がり納品したら選手の氏名の間違いを指摘された。選手、親にとっても記念になるものなので・・と言われやり直しとなった。人名は特別な文字も使われるので間違いやすい。
これまでの、支えて下さい!は作業所づくり運動には通用するが商売は別だ。社会の商習慣を身につけるにはしばらく時間いった。
     画像の説明
     スピード可変式のベルコンに製品が次々とながれます。

2026年1月16日

  • わかくさ歴史 また少し後戻り 日高昆布の販売
    1月13日母子寮跡時代の方々に集まって頂いた。
    青春時代のど真ん中。わかくさとともに過ごした熱かった日々を語っていただいた。
    当日の様子は、またアップしますが、その時の話の切り抜きです。
    母子寮跡時代の様子
    ①粗大ごみを集めてわかくさの備品。
    ②なんでも、貰ってバザー
    ③もらえるものが無ければ、古新聞を貰って売ったのが廃品回収の始まり。
    ④物売りは、せんたくバサミとカレンダーだけでなく日高昆布も売った。
    物を売るのではなく、わかくさの願い、心を売ってこいと言われたそうだ。
    (これらの話はやや大げさですが間違いではないようだ。)

日高昆布販売のきかっけは、バザーや署名でお世話になった地域(松が丘)の人から、北海道の漁師の方(静内町の田中さん)を紹介するので、日高昆布を売って資金づくりをしませんか?と紹介があった。
     画像の説明

北海道直送 日高昆布1等品
数量限定品ですので売り切れの時はご容赦ください。
数に限りがある1等品を静内町の田中さんから送って頂いています。
内容量 500g  包装サイズ 約25センチ×35センチ×5センチ
お歳暮、贈答品に最適 です。

売れるか?やや心配だったが、わかる人にはわかる品物だった。毎年リピータがついた。
注文しても、不作の年には漁業組合に先取りされるので手に入らない貴重品。
静内町の田中さん何十年もお世話になったが高齢のため、漁をやめれて、近所の方に引き継いで頂いたが、現在ではその方も高齢になられて数年前に残念ながら仕入れる事ができなくなって終了した。

昆布の主な効用 美容食、健康食品、味噌汁、昆布巻、煮出し、昆布野菜煮込み、なべ料理、おでん。高血圧の方、ガンに神経質な方、成長期のお子様に、美しくありたい方、便秘の方、白血病の予防材、養毛効果・・・・など

2026年1月15日

  • わかくさの歴史・・・わかくさ第2障害者作業所 開所
    1985年のわかくさ障害者作業所(知的授産通所30名)の開所の翌年、1986年にはわかくさ第2障害者作業所(身体授産通所20名)が同一敷地内に併設で開所した。
    認可施設建設づくりの計画が2ヶ年で完成となった。
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          1986年4月に今の姿になりました。
    鉄筋コンクリート2階建て。延べ床面積約980㎡
    総工費約2億5百万円。補助金約1億5千3百万。借入金2千万円。
    自己資金約3千2百万円。多くの市民からの励ましと支えで実現した。
      画像の説明
          3月の竣工式にも多くの人が駆けつけて頂いた。
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          有志による焼きそばや餅つきもお祝いにに花をそえた。
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          焼きそばの先生が登場です:中央Aさん
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2026年1月14日

  • わかくさの歴史・・・少しだけ後もどり メーデーに参加
    昔のメーデーは今より活気があった。
    高槻市では、市民グラウウンド(城跡公園野球場)に多くの労働者が参加した。
    以前、私が勤めていた企業は、組合はあったがそれほど活発ではなかったが、メーデーは希望者を募り多数で参加していた。
    わかくさも母子寮跡時代は年間行事の一つだった。
       画像の説明
     『全面参加と平等』のプラカードそして わかくさの旗(緑と紺色)2旗を掲げて
    すべての障害者に働く場を!と訴え、きょうされん全国署名を押し出す機会にもなった。
    集会が終わると、阪急高槻市駅方面から商店街をとおり市役所の広場まで行進する。
    国際障害者年の年は『障害者の社会への全面参加と平等の実現を』をと横断幕もって行進した。
      画像の説明
           行進を終えて・高槻市役所 南広場

2026年1月10日

  • わかくさの歴史・・・みつばち作業所の移転と隠れ借金
    みつばち作業所が誕生したのは、1984年。認可施設開所の一年前である。
    現在の岡本町ではなく、わかくさ(無認可)母子寮跡の近くの文化住宅(城内町)である。
    仲間が増え手狭になってきた事と、当時の補助金制度は一作業所ごとだったため2つの作業所にしたのだ。
    1985年、念願の1期工事が完成したが全員が入所できたのではない。
    その為、わかくさ第2共同作業所開所(現在のわかくさ敷地内のプレハブ棟)を建設した。(2期工事完成までの1年間だけの無認可作業所である。)
        画像の説明
            現在てんとうむしと呼んでいる建物    
          1985年 1年限りの 無認可 わかくさ第2共同作業所
    さらに、すべての希望者を受け止めるため、みつばち作業所を移転し(城内町から岡本町へ)建設した。 
    みつばち作業所は、高槻市が建築費の独自助成制度を創設した最初の施設である。
    地元の方々の壁が厚く話し合いに時間を要したが1985年12月に完成した。
    画像の説明
          みつばち作業所 1985年12月 移転 開所
    短期間に、わかくさ1期工事、わかくさ第2無認可、みつばち無認可、さらにわかくさ2期工事と規模も仕様も違うが4施設の建設だった。
    草の根募金で2500万円づくりを掲げ多くの皆さんの支援を頂いた。
       画像の説明
                 募金袋と募金帳
    それでも、資金繰りは大変であった。たらない部分は2千万円借入れた。
    建設にかかる自己資金も大変だったが日々の運営も大変だった。
    1985年からは、無認可作業所職員の給与も認可職員に合わせた。
    認可施設の財源は、無認可には使えない。早速、ボーナスの時期に資金が底をついた。無認可職員の財源がない。
    打った手は、認可施設の施設長はボーナスを受け取り、そのお金を貸付、無認可職員のボーナスにした。
    みつばちの建設の自己資金はなく、1年の約束で家族から借りた。
    約束の一年後、返せるお金はなく、借りれる人をつのり、その金をもって家族に返済した。
    認可後5~6年先まで隠れ借金があった。母子寮跡時代とは違う苦労が始まった。

2026年1月9日

  • わかくさの歴史・・・新施設になって  給食
    母子寮跡時代、家族、ボランティアの協力をいただきながら仲間も調理に参加して週1日の給食を行っていた。
    認可施設になって、楽しみにしていた毎日の給食がはじまった。
         画像の説明
          赤みかかった入れ物がごはんのおひつ。各テーブルに置きます
                われ先に、おかわりは競争です
    ひかりあふれる吹き抜けの食堂、美味しく、おかわりもできて・・夢の実現である。
    調理実習もはじまった。
    画像の説明
               調理実習 お好みやき
    いつも、いつも、お腹いっぱいだ。
    栄養士の薄味の味付けになれない職員は、こっそり醤油をかけていた。
    行事食、給料日に寄せてなどの特別な日はみんな楽しみにしている。
    数年後のことだが、平和の取組の1つとして、戦時中の食事を再現する日があった。
    そうとは知らず、職員の○○さんが、こんな給食は食えないと怒り出した。
    吹き出しながら○○さんに説明したが納得してもらえなかった。
    きっと、子供頃食べた思い出したくない味以上の味だったのかもしれない。
    画像の説明
           働く者(労働者)の忘年会 ビールはあたりまえです
    ※毎月の体重測定の結果、おかわり自由は1年も続かなかった。

2026年1月8日

  • わかくさの歴史・・一期工事完成 1985年3月
     画像の説明
        わかくさ障害者作業所 右のプレハブは工事現場事務所
    1985年(昭和60年)いよいよ建物が完成し、2月末に引渡しされ、3月23日に多くの皆さんとともに喜びの竣工式を迎えました。
       画像の説明
          わかくさ障害者作業所 竣工式 1985年3月23日  
    第1期工事知的障害者通所授産施設定員30名の施設が誕生しました。
    総事業費1億250万円。国、府、市の補助金7千373万円。借入金1千万円。自己資金は1千377万円。自己資金は多くの皆さんから寄せられた草の根募金です。
    ふりかえれば、やっと貸してもらった市の母子寮跡で、ほっとするまもなく『公園にするから立ち退け、後は知らん』と冷たかった行政。
    それでも、どのとき、どんな場面でも支え続けて下さった市民の皆さんがいたからこそ、歩み続けることができ、今日の日を迎えることができました。
    古いわかくさの3倍の広さです。出来上がったこの施設は、みんなの共同、共通の財産です。
    画像の説明
             ベルトコンベアから次から次へと製品が流れます
    1976年 日曜だけの作業所から9年。
    わかくさづくりが始まった頃、認可施設の夢はもっていても、夢の世界でした。
    この人たちに、聞いてみたい?ほんとにできると思っていたの?
     画像の説明
         離ればなれになった方、亡くなられたも・・・あれから50年
      画像の説明
       1977年 第1回バザー(西武百貨店) 成功!打ち上げの様子

2026年1月7日

  • わかくさの歴史・・古きわかくさへ 母子寮跡との別れ
    わかくさづくりの運動をはじめて3年目、高槻市から母子寮跡の借用が実現し、1978年6月11日の喜びに満ちた開所式から約7年間。お世話になりました。
    仲間の人数もふえつづけ、仲間にとっても、家族にとっても、ボランティアも、この屋根の下でおおくの夢を語らいました。数々のドラマも生まれました。
    1985年3月 新施設工事完成とともにお別れです。
    画像の説明

古きわかくさへ 岩井 清
さようなら 古き建物 私たちは今 出ていきます。
 私たちにとって 新しい出発が始まりました
枯れた芝から 芽がふくとき 私たちは あなたを 出ていきます
あなたは 今まで 兵舎として 母子寮として
 いろいろな思いを抱いた人達を見てきたでしょう
 最後に 私達が出ていきます
私達も また 障害を抱きながら あなたにお世話になりました
祈ってください 
私たちが枯れた芝から芽をだした、本当のわかくさになれるのを
そして できるなら 大きな木になれるのを祈って下さい
私たちも 強い風に吹かれながら 頑張ります
ありがとう 古き建物 古きわかくさ ありがとう

岩井清さんは、わかくさで働く重度の身体障害者の人でした。
就学猶予・免除が当たり前の時代で学校はいっていません。
割り箸を口に咥えキーボードを押さえ多くの文章を書きました。
短歌、俳句、童話、日々のぼやき、政治に対する怒りなど膨大な作品です。
画像の説明 
岩井 清(いわい きよし)
昭和24年(1949)7月27日生まれ。 脳性麻痺1種1級。就学免除
昭和57年(1982)8月からわかくさ共同作業所(のち、わかくさ障害者作業所)に通所
平成20年(2008)年2月20日没、享年59歳
著書
1990年 『HOLD・THE・SUN』 発刊 (わかくさ障害者作業所印刷班)
1996年 『心の筆を走らせて:障害者の目に映る日々』発刊 (近代文藝社)
2009年 遺作集 『岩井清の世界』発刊 (かもがわ出版社)

発刊によせて 岩井清さんを偲んで  2009年2月  
ありがとう 岩井さん   わかくさ福祉会 常務理事 西山和幸
突然の訃報だった。前日まで元気だった岩井さんが突然亡くなった。
お別れの日は、2月だというのにあたたかい日ざしがふりそそいでいた。
『岩井清さんありがとう』。仲間の声に見送られた。
岩井さんと過ごした25年間。滑稽で不思議な時間だった。
岩井さんは、自ら口癖の『プロの障害者』として人生を楽しんだ。
人間らしく生きたいという心からの叫びは、理不尽な社会に怒り告発した。
『おーい、あのな、ちょっと』と呼び止められる。
そのたびに、心の中をグサリ、グサリかき回され、揺さぶり続けられた。
 20年程前、施設長になり、なれないネクタイ姿で疲れている私を見て祭り好きな私に『西山指導員・・・・また一緒にたこやき売ろうな!』岩井さんからのメッセージだ。
できそこないの施設長を支え続けてくれたあたたかい友だった。
さようならはいいたくない。

2026年1月6日

  • わかくさの歴史・・第1期工事完成直前 認可施設実現
     画像の説明
       完成直前のわかくさ障害者作業所(一期工事) 1985年1月
    1985年1月15日発行 わかくさニュース・・はたらくよろこび より

まちにまった春 “わかくさ”今 新たな旅立ち
新年おめでとうございます。
今年は、わかくさにとって仲間の願いを具体的、本格的に実現できるスタートの年です。
その“トリデ”の『新施設』の開所という決定的ともいう節目の新年を迎えることができました。
春光“今”働く仲間の前に
いよいよ、4月からは社会福祉法人わかくさ福祉会として新施設開所。現状では実現できないくやしいひとつ一つのおもいに具体的にこたえていける条件が整います。
障害を飛ばして年相応の生活を保障するための『トリデ』が完成します。厳しい世の中でも働く仲間の前に、春の光が見えてきた。そんな気がしてなりません。

こんな事が実現します。
○印刷圧力45トンの大型活版印刷機では、名刺、封筒、はがきからビラ、ポスターまで印刷できます。
○ベルコンベアが並ぶ大作業室。次から次へと製品が流れます。
○食堂のコーナーを利用して仲間も調理に挑戦します。
○縫製部門では、コンピューター付ミシンで障害の重い仲間でもフキンなどの製造ができます。
○手織り機で袋物などの自主製品を製造します。
○相談室では、仲間、家族をはじめ、地域の障害児者の相談にも

2026年1月6日

  • わかくさの歴史・・建築工事始まる
    1983年12月26日 高槻市土地決定(郡家新町)から法人設立及び施設建設がうごきだします。翌、1984年1月に建築補助金の本申請。
    5月末に建設補助金内示。そして実施設計。
       画像の説明
             建設工事説明会 1984年9月
    9月に施工業者の選定で(入札)甲南建設工業(株)に決定。いよいよ来春の完成にむけて第1期工事(知的障害者通所授産施設30名)の建築工事がはじまりました。
       画像の説明
          第1期工事 知的通所授産 30名  1984年11月
    その他に、1984年9月に、社会福祉法人設立申請。建設工事費自己資金の不足分を大阪府社会福祉協議会に借入金申請(1千万円)など書類づくりに追われました。
    当然ながら、この時代パソコンはありません。電卓で計算します。文字は手書きが主流でしたが、少しずつワープロが普及し始めた時代です。
        画像の説明
    液晶部分が小さく3行?ぐらい。これで当時のB4規格の用紙全体を想像して文字を打ち込みました。これでもすごーい!感動しました。

2026年1月5日

  • わかくさの歴史・・社会福祉法人設立
    現在は、株式会社、有限会社、NPO等、法人格さえあれば障害福祉事業を行うことができます。
    しかし、当時は、障害福祉施設は第1種社会福祉事業に位置付けられており、国および、地方公公共団体もしくは社会福祉法人のみが施設の運営を行う事ができることになっていました。きわめて公共性が高い事業ゆえに途中で投げ出す事もなく将来にわたり安定して運営するための非営利の法人格が求められていたのです。
    あらたに建設する、わかくさ障害者作業所も法制度による施設運営を行うには社会福祉法人を施設建設と同時に設立する必要がありました。
       画像の説明
          わかくさ福祉会発起人会議 1984年9月 市民会館 
    社会福祉法人には、施設建設の補助金、退職金制度、税の優遇措置など大きな利点がありますが、法人運営には役員構成、決議方法、会計処理など細かな事が決められています。

法人設立趣意書

社会福祉法人わかくさ福祉会

障害者の『ぼくも働きたい』『仲間がほしい』との願いを実現するため、わかくさ共同作業所づくりをすすめる会は、無認可で、わかくさ共同作業所を運営、維持、発展させてきました。
 わかくさは、この9年間、どんなに障害が重くとも、障害種別の違いをのりこえ、仲間同志、力を合わせ、働くことに主人公として参加し、働くことや、生きることの喜びを仲間自らのものとし、仲間、家族、関係者にとって、なくてはならない、かけがえのない砦(トリデ)に成長してきました。
 行政からの運営費補助が乏しい中、わかくさの運営、経営は、何千人、何万人という地域の人々に、支え、励まされ、今日まで守られ、育てられ、地域の人々の共同、共有財産として存続してきました。
 これら、9年間の歴史と伝統と、培われた共同の事業の礎(いしづえ)の上に、社会福祉法人わかくさ福祉会を設立します。
 社会福祉法人わかくさ福祉会は、障害者の労働を『人間の基本的要求として、社会参加の機会として』とらえ、すべての障害者に働く権利の保障をめざし、たとえ障害をもっていても、同年齢の市民と同等の生活を享受し、社会生活と社会発展に全面的に参加することを実現し、全人生の総合的権利保障をめざします。
 障害者の学校卒業後の課題は、未解決のまま山積しており、その対策は皆無に等しい現状に放置されています。真の「進路保障」の実現と、親なき後の、さらには、一人の社会人として生活しうる生活施設づくりをめざします。
 その実現のためにも、地域の障害者、家族、関係者と固く手を結び、地域での障害者運動に積極的に貢献し、役割を担っていきます。その一環として、障害者、家族に応えるため、障害(児)者発達、生活相談所の設置をはじめ、障害者の総合的保障の実現のための研究、情報交換等の事業を行います。
 “戦争がもっとも多くの障害者をつくりだす”“平和であってこそ、障害者の全面参加と平等は実現しうる”と国連は訴えつづけています。私達、社会福祉法人わかくさ福祉会のめざす事業のすべては、平和が守られてこそ、実現可能となるものです。地域の人々と共に、平和を守り、人々の生活を限りなく豊かなものにする事業を、共同して創造するため、歩みつづけます。

1985年(昭和60年)3月

社会福祉法人設立許可書 昭和60年(1985)3月23日 付 で手にしました。 
以来、法人設立記念日をこの日に 3月23日 にしました。

2026年1月4日

  • わかくさの歴史・・・設計が始まる
    設計は基本構想づくりから始まります。設計者を交えて建物にどんな命を吹き込むか?と議論が続きました。大いに夢を語ります。仲間にとってどんな施設にするか?から始まり職員にとって?家族にとって?地域にとって?市民とって?社会にとって?と毎回テーマごとに意見を出し合います。その都度、設計者の『その心は?』と質問が飛びます。
    わかくさ関係者の想いを1つに固めると同時に設計者と想いを共有する大切な最初の作業です。
     画像の説明
      先に認可施設を実現した 岸和田作業所にお話を聞きに設計者ととに
    次に基本設計、実施設計と移ります。基本構想で描いた夢を形にする作業です。
    年間、月間、週間、一日単位で使用方法、人の動き想像し、各室の大きさや部屋と部屋のつながり、設備などの検討を行います。
    建築場所、敷地面積や形状、建築面積、床面積、都市計画法、建築基準法など様々な条件や制約が出てきます。そして、もっとも大きいのが資金による制約です。最初の夢から重要性の順列をつけて省けるものは諦めて次回の夢に託します。
    画像の説明
        完成予想スケッチ 1984・7.7 現状とはすこし違います
    この経験から、私の口癖になりました。『施設建設は夢を実現するのではない。そぎ落とした後の一番大切なものが実現するのだ。ゆえに、その心は?が大切だと!』

2026年1月2日

  • わかくさの歴史・・建設資金(自己資金)づくり
    当時の施設制度は障害種別ごとになっていて、障害種別をとわず運営していたわかくさ共同作業所は、知的障害者施設と身体障害者施設をそれぞれ障害種別ごとに建設する必要がありました。
    2施設を同時に建設する事も検討しましたが、国庫予算が厳しい中、申請しても2施設ともに補助金がつかない恐れから、先行して知的施設、翌年に身障施設を併設して建築することにしました。
    共同作業所の運営では、仲間が増え、職員が増え、毎年、1000万円を念出するためにバザー、物品販売、廃品回収などの事業に全力そそぎながら、新たに施設建設のための自己資金づくりです。。移転先の土地のメドも見えず、ほんとに認可施設ができるのか?の声もありました。
      画像の説明
         建設工事費 自己資金についての学習
    認可施設建設の申請時には建設に必要な資金があることが条件で残高証明書が必要です。建設費から補助金と借入金を差し引いた2,500万円が目標です。
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進展しない高槻市からの市有地提供も自己資金作りを進めることによって見えてくると、1982年から、自己資金づくりを本格的に取り組み始めました。募金帳や募金袋を作成して、家族会やボランテイアに渡し協力をお願いしました。募金帳をもって隣近所はもちろん、商店街のお店一軒一軒に飛び込んで訴えたり、集会や職場で募金袋を回したり草の根の募金活動がはじまりましたがまだまだ必要額には足りません。
高槻市長の1983年度中に市有地を無償貸与する決定をうけ、土地があるのに資金がないでは話になりません。
1984年1月の国庫建設補助金本申請までの約1年間に第1期工事分の自己資金分の最低1,100万円が必要です。集まらなければ9年間の苦労も土地も無駄に終わる土壇場の運動でした。
家族は、自らはもちろん親戚に、ボランティアも自分の家族、友人、職場にと建設資金の運動が広がっていきました。
市内のすべての小、中、高の学校、保育所、養護学校の先生、様々なサークル、団体との9年間のつながりをたぐりよせ、あらたなつながりをつくることで建設資金は積み上げら目標の2500万円万円には届かないものの1年間に約1500万円が寄せられました。
    画像の説明
      高槻まつりでも市民に訴えました
     引き続き、2期工事の自己資金1000万円づくりがつづきます。

2025年12月31日

  • わかくさの歴史…認可施設建設用地(代替地)をめぐって
    認可施設建設の課題で土地が決まるか否かは90%以上の比重をもつほど大きな問題です。土地を自力で購入して移転することは明らかに不可能です。
    認可施設建設は運動を始めた当初より全国的な教訓として意識していたものの、日々の無認可作業所の運営全力をさかれ、建設資金は作れても現実的な課題にはなりえませんでした。
    1981年2月の怒りの市民福祉部長交渉で『障害者の立場に立って考えていきたい。みなさんの要望に応えられるよう努力します。』の言葉をひきだし当面の間の母子寮跡の継続使用は実現できたものの認可施設建設にむけての動きは進展しません。
    大阪府下でも行政が土地を提供し認可施設が次々と誕生してきた時代です。
      画像の説明
       会議は終わりの予定時間はありません。夜遅くまで続きました。
    私たちも、『部長答弁の「努力します」』具体化を迫り市有地の提供を求め度重なる折衝もなかなか具体化せず時間ばかりが過ぎていきました。やっと動きがでてきたのは、1982年末12月28日に、1983年度中に『代替地を無償提供する』ことの市長決定でした。
    認可施設建設の事前申請は9月でしたが、市長決定はなされたものの土地の明示はないまま大阪府に申請書類を提出しました。大阪府からは、民間同士の約束なら受け付はできないが相手が高槻市ならば、市役所担当責任者からの口頭説明で確認ができれば受け付けるといわれました。事前申請はすんだものの土地が決定しないことには建築基本構想は錬れても設計はできません。図面が決まりません。本申請もできません。
            ボーリング.jpg
            郡家新町48-2 地質調査 1984年7月
    まだかまだか土地の決定を待つこと市長決定から1年、難産の末、土地が決定したのは本申請締め切り2週間前の1983年12月26日、この時も年末ぎりぎりでした。郡家新町の現わかくさ障害者作業所の敷地です。翌1月に社会福祉法人設立並びにわかくさ障害者作業所(知的障害者通所授産施設(30名)の建設補助金申請を行いました。

2025年12月29日

  • わかくさの歴史・・・1981年 国際障害者年
    1981年を『障害者の社会への全面(完全)参加と平等』をテーマに国際障害者年でした。国連は、障害者を締め出社会は弱くてもろい社会である。と指摘し障害者が特別な人間でなく、市民の一人として、生活していける条件を整備するよう世界に強く呼びかけました。
    行政サイドにおいても『国際障害者年推進本部』が設置され、私たちの願いからすれば不十分ですが、啓発活動を中心に取り組まれました。マスコミにおいても障害者問題が大きく取り上げられ国民の中に一定の理解が広がりました。
           画像の説明
    民間サイドでは、全国113団体で国際障害者年日本推進協議会が結成され、都道府県単位では、国際障害者年推進連絡会が結成されました。障害者登山、ひまわり号などの取り組みや全面参加平等の施策実現にむけて行政交渉が活発に展開されました。
      画像の説明
                 街づくり点検

以前のページでもふれましたが、高槻でも国際障害者年推進高槻連絡会が結成され事務局をわかくさにおきました。高槻の連絡会の呼びかけ人には、大学教授、医師会、歯科医師会、薬剤師会、老人クラブ、主婦連、障害者団体。幹事には、市内の関係団体、機関の殆どを網羅する構成でした。
市民会館大ホールで開催した市民集会では記念講演に黒田了一氏(元大阪府知事)をお招きしました。わかくさには、ボーイスカウトや、高槻民商マイホームセンターからの温かいご協力もありました。、また、高槻勤労者山岳会の方々と障害者登山(車椅子で高槻のポンポン山(本山時まで)や京都大文字山などに登りました)もはじまりました。
   画像の説明
障害者登山 約100人が車椅子ごとの班に分かれて車椅子を押したり引っ張ったりして山に登りました。
初めての障害者登山の前日に、高槻市バスから、駅前から何人乗車の予定か?と電話がありました。お叱りではなく、臨時バスを手配するので人数がしりたいという話でした。100人も押しかけたら一般乗客は迷惑なこと。臨時のバスをお願いできることを初めてしりました。国際障害者年の年、『障害者の社会への全面(完全)参加と平等』をかかげ、わかくさが地域とより大きく、つよく結びついた時です。
この広がりが高槻市から『公園にするから母子寮跡から出ていけ!』と言われた時、『追い出さないでさないでよ!市長さん!』と訴え、『障害者の立場に立って考えていきたい。』の答弁を生み認可施設実現にむけた大きな一歩になりました。

2025年12月26日

  • わかくさの歴史・・追い出さないでよ 市長さん
    1978年やっと手にした母子寮跡での感動の開所式。その後、一年毎の賃貸契約更新で、わかくさは場所的には安定し仲間も増えつづけました。ところが、わずか3年足らずの1980年9月に来年度の契約更新できないと知らされました。私たちは、今の場所が公園計画にかかっておりいずれは移転する事は承知していても、すくなくとも障害者の立場に立って仕事をする担当課の責任者が、『公園にするからドケ。後の事は知らん』では納得できるものではありません。
    母子寮跡を提供し、少ないとはいえ補助金を行政として補助しているのに『後のことは知らん!』では、あまりにも無責任です。
    私たちは、母子寮跡にしがみつくのでなく、補助金の増額と喜んで移転できるようにと認可施設の建設についての援助を再三にわたり申し入れていました。
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       もっと広い場所で働きたい! の垂れ幕
    3月末の契約期限切れが迫る2月13日。高槻市と交渉を持つことができました。場所は市民会館南のプレハブ建の会議室。
    高槻市からは市民福祉部長他3名。わかくさ仲間の胸には『働く場をとらないで』『追い出さないで市長さん』とゼッケン。急な呼びかけにかかわらず次々と市民や団体がプラカードや団体旗を持って駆けつけてくれました。関西テレビのカメラが構えています。
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    緊張と興奮の交渉は、♪ぼくらはみんな 生きている 生きているから 歌うんだ♪と「手のひらを太陽に」の熱唱から始まります。
    用意されてた答弁を部長が読み上げます。『3月末で出て行って欲しい。』『認可施設の事は考えていない』です。
    テレビカメラがまわり、ライトが参加者の怒りと願いの熱さをぶつけます。
    仲間が一人ひとり、そして家族がわかくさの大切さをのべ、障害者立場に立って下さい。と訴えが続きます。
    再度、答弁にたった市民福祉部長さんも額に汗です。
    そして、『障害者の立場に立って考えていきたい。みなさんの要望に応えられるよう努力します。』と答弁。テレビカメラが、今の言葉は間違いないか?と答弁の確認を部長に求めます。
    行政の姿勢がかわった瞬間です。

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          放映されたテレビ画面

夜のニュースで『国際障害者年のこの年に、ある市では障害者を追い出す?・・・』と放映されました。テレビをみた府民から激励がわかくさによせられました。高槻市長にも要請の手紙をだしたことも添えられていました。

前略
わかくさ共同作業所の皆さん、お元気ですか。先日テレビのニュースで、皆さんが対市交渉をして頑張っておられるの知りました。そして、市当局の一方的なやり方に怒りを感ぜずにはおれませんでした。・・・・・・・私はこうして皆さんに突然お便りをするとともに、高槻市長にも要請の手紙をだしておきました。多くの府民と青年が皆さんの事を応援しています。

認可施設実現までには、まだまだですが、この日、この時、おおきな希望に繋がっていきました。
追記:当時の部長さん こっそりバザーの品物を提供して下さるなど立場を離れたら応援してもらいました。

2025年12月25日

  • わかくさの歴史・・・国民平和大行進
    国民平和大行進は、「地球上から核兵器を追放すること」を国民に呼びかけることを目的とし毎年続けられており、平和を願う人々がリレー形式で全国を行進し、その願いと思いを繋いでいます。
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    わかくさ福祉会の法人設立趣意書には、

    “戦争がもっとも多くの障害者をつくりだす”“平和であってこそ、障害者の全面参加と平等は実現しうる”と国連は訴えつづけています。私達、社会福祉法人わかくさ福祉会のめざす事業のすべては、平和が守られてこそ、実現可能となるものです。地域の人々と共に、平和を守り、人々の生活を限りなく豊かなものにする事業を、共同して創造するため、歩みつづけます。

毎年7月には高槻市役所から総持寺、茨木、摂津、吹田へむけて平和を呼びかける行進があります。わかくさの仲間達も総持寺まで参加しました。
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2025年12月23日

  • わかくさの歴史・・・カレンダー販売1万本達成。
    無認可作業所に対する大阪府の補助金制度は、大きな励ましではあったが実態とかけ離れていた。大阪府の補助金は1978年に年間77万円でスタートした。
    その後、1779年から1981年は年間200万円。1982年から1983年は年間300万円になったものの焼け石に水だった。
    仲間も職員も増え規模が大きくなるに伴い毎年、約1,000万円を捻出しなければならなかった。バザー、署名募金、カレンダー販売、廃品回収、夏祭り、映画会など多様な事業によってわかくさの運営は守られていた。無認可時代10年間に市民の皆様から寄せて頂いた善意と激励の総額は約9000万円を超えている。
    ゆえに、わかくさは市民との共同、共有の財産である。
    わかくさニュース 1981年1月15日号 カレンダー販売 一万本達成とある
    物売りではなく、わかくさの願いを伝え、心と心を結び合おう。がスローガン。
    この時期は、選挙の投票依頼(票読み)みたいなものだった。
    仲間も、家族も、ボランティアも思いうかぶすべての繋がりに声をかけていた。
    仲間達は、市内の小、中学校を中心に1,700本達成。ボランティア達も昔の恩師や知人などに声をかけ、繋がりが繋がりをよんで東南アジアまで広がった年もあった。
    一人で2,000本を達成した人は、いつも車の中は50本入りのカレンダーの箱が4~5箱積んで他府県まで持ち歩いていた。
    昔の資料をみると見学者や取材に来たテレビの記者の方にも協力して頂いている。
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           カレンダー販売 ハチマキしめていざ出発
    また、日曜日には、仲間、ボランティアは、リヤカーにカレンダーを載せて地域に販売(4日間)にいく。1日で196本売れた記録もあった。
    行事やイベントがあると聞くと会場で訴えたり、デパートの入り口でも販売させて頂いたこともあった。
    12月末、暮れが迫れば残りの在庫とにらめっこが始まる。あと何本、あと何本と在庫がなくなるまで職業別電話帳を広げて電話作戦。まさに選挙みたいなものだった。
    こんな事もあった。
    餅つきがあると聞いておじゃましたら、つき手が足らないからと言われて手伝った(手伝わされた)。ヘトヘトになってカレンダー販売の事はどこかいっていた。

2025年12月22日

  • 柚子搾り器 試作品
    わかくさ50周年記念詩づくりは、1月に2回目の座談会を予定している。
    無認可時代の第2弾で母子寮跡の時代の方々を中心に呼びかけている。
    日曜作業所、文化住宅時代に、『わかくさづくり』の基本構想が練られた。
    母子寮跡時代に、わかくさの基礎、土台が作られた。
    何十年も会っていない、この時代に基礎、土台づくりに青春をかけた仲間たちと再会できる時を心待ちにしつつ・・・・・本日は、歴史編はひと休み。
    高知県は全国一の柚子の産地らしい。
    高知県では、自宅で柚子をしぼりポン酢をつくり一年中使うそうだ。
    我が家では、この季節になると柚子茶をつくっていたが、先日、高知県産の柚子を大量に頂いたのでポン酢をつくる事にした。
    柚子搾り器・・・検索すると、いろんなものが販売されている。
    安いものでも7~8千円もする。値段にびっくり
    早く欲しいこともあって自作することにした。(早く手に入るものがあっても絶対買わないと思う。買わない。絶対作る…ケチだもの)
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試作器だが一応役目ははたせた。改良のすべき点もわかってきた。
そのうち、改良したものを作ろう。
早速、炭火で焼いた魚にポン酢をかけて食べた。香りがいい。まろやかだ。
容器がペットボトルだったので傾けたら、ドバーかけすぎた。(酔っぱらていた?のではない)
あーもったいない。もったいない。
市販のポン酢はトゲがある。
柚子味噌もいい。ご飯がすすむ。

2025年12月19日

  • わかくさの歴史・・廃品回収 より広く、強固なわかくさを支える基盤づくり
    廃品回収を本格的に初めたのは1983年からです。当初は、これまでの知人等市内120軒余りです。府下の作業所をまねて始めたものの、市内全域に点在しており車3台で朝10時スタートしても夜の10時11時までかかりました。
    それでも日曜だけで終わらず、翌日も仲間が退所後に車を動かしました。
    台帳の整備、道順コース、わかりやすい近隣目印の地図、など効率良く動ける工夫や市内を南北にわけ隔月として訪問先範囲を集中しました。
    古新聞の提供の呼びかけは、次々と、協力者が協力者を生み、市内南部地域で約180軒。北部地域で170軒まで広がりました。
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        廃品回収個人台帳 行く順番に整理し隔月に訪問しました。
    これにより収益も月約7万円、年間80万円から90万円作りだす事業に発展しました。
    この事業特徴は、収益以外の大切な意味があり成果を生み出しました。
    廃品回収の事業は、『古新聞の提供でわかくさを応援する』という、もっとも手を繋ぎやすい入口だった事で支援の輪が一挙に広がりました。
    そうして広がった市民に、毎回、訪問時にはニュースをとどけ対話し、署名の時期は用紙を預け。バザーの時は物品をお願いし、カレンダー購入を願いするなどができることで、それぞれの事業が一回りも二回りも大きくなりました。一束の新聞紙が市民一人ひとりと、わかくさを繋ぎ新施設づくりの土台になっていきました。
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エピソード:わかくさに突然、やや強面の男性が数名で来られました。廃品回収を職業としておられる業者の組合の方々でした。『わしらの仕事を奪うな!』と抗議です。
当時、よく見かけた、軽トラで『古新聞・雑誌・ダンボールなどはございませんか?』と流しながら町内を回っている方々の団体です。みなさんの職域を荒らすつもりはない。障害者共同作業所は、全国でも、大阪府下でも同じことをしていると理解を求めました。が・・・・


2025年12月18日

  • わかくさの歴史・・忘れてはいけない失敗の話・・始末書
    わかくさの古い書類のなかに高槻市長あての『始末書』なるものが保管されていた。

昭和57(1982)年12月24日午前11時30分過ぎ、借用使用中の建物東側にある焼却場の残り火が近くの廃材に移り、廃材の炎で建物東側外壁をこがす不始末を起こしました。・・・・・深くお詫び申し上げます。

焼却炉.jpg

当日の様子
早出の職員(8:30)が水はけが悪く水浸しになる通路に段ボールをしき通路を確保しようとしたものを焼却場で焼却し火の消えた事を確認した。その後火の気はなかった。
11時30分過ぎ、焼却場及び、近くの廃材が燃えている事を発見し、消火活動、利用者避難、消防署への連絡をおこなった。人的な被害はなかった。
購入した焼却炉
今後の対策
①焼却場は取り壊し、焼却炉を購入する。
②新しい消火器を設置し、設置場所を示す表示板をつけ、職員全員で使用訓練をする。
③作業所内外を問わず、絶えず整理整頓を行い避難通路を確保し避難訓練を実施する。
④火元安全確認を強化するとともに、他の事故等を含む安全確保について定期的に点検する。
不始末を起こした記録だ。
当時の新聞に『障害者ヒヤリ・・・・ボヤ』と載った。
話を聞いて関係者も駆けつけてくれた。ボヤ程度で済んだ事に安堵した。
もうすぐ12月24日だ。忘れてはいけない失敗の話だ。その日も近い。
一瞬にしてすべてを失う危険は絶えずある。
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        母子寮跡 わかくさ共同作業所 作業風景

2025年12月16日

  • わかくさの歴史 きょうされん国会請願署名3万筆
    署名台帳B4版 持出禁止 誰が、いつ、誰に、何枚預けていつ回収したかの台帳
syomei daityou.png

1977年共同作業所全国連絡会結成(16か所)されました。
きょうされんは、今日まで、1年も欠かすことなく、国に対して全国署名と交渉を行っています。
わかくさでは、1979年に5,638筆の署名。1980年に6,365筆。



国際障害者年の1981年には、29,724筆(募金額901,515円)ほぼ目標の3万筆を達成しました。
約1月間1日2時間の街頭署名活動をはじめ、募金袋も兼ねた封筒に署名用紙を3~5枚セットし、とにかく用紙を預けて後日、白紙でも用紙は必ず回収する。などを徹底しました。
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         メーデーの参加者に署名を訴えています
わかくさ内部関係者のこうした踏ん張りはもちろんですが、『国際障害者年』だった事も成功の大きな要因でした。
前年には、府下的に国際障害者年推進大阪連絡会が発足し、わかくさからも常任幹事に加わり、過去の障害者の集会では最高の参加者で府民集会を成功させました。
これに、呼応して、高槻でも国際障害者年推進高槻連絡会を発足し事務局をわかくさにおきました
連絡会の呼びかけ人には、大学教授、医師会、歯科医師会、薬剤師会、老人クラブ、主婦連、障害者団体。幹事には、市内の施設、障害児学級、保育所、障害者団体、保健所、養護学校など市内の関係団体、機関の殆どを網羅する構成でした。
市民会館大ホールで開催した市民集会も大成功しました。
この年ボーイスカウト40~50人の少年達よるわかくさの屋外清掃作業。また、高槻民商マイホームセンターによる無償の内装工事などもしていただきました。
国際障害者年の年、『障害者の社会への全面(完全)参加と平等』をかかげ、わかくさが地域とより大きく、つよく結びついた時期でした。
この年には、年末のカレンダー販売も約1万本達成しています。
国際障害者年を、わかくさの運動を広めるチャンスにするためのいくつかの作戦がありました。
その一つ、国際障害者年の一年前、『来年は国際障害者年です。わかくさバザーにご協力を!』のポスターを3,000枚発注。コート紙の上等なポスターです。
約1月かけて、市内全域にポスター張りめぐらしました。貼り付ける場所の殆どが電柱貼りでした。(今の時代では考えられませんが)
3,000枚という数、半端でないポスター貼りを数人で行うのですから身体がついていきません。肩が痛く腕が上がらなくなって当分の間整骨院にお世話になりました。
わかくさのポスターがテレビで放映された事もあったと聞きました。
なんと、市民に美化活動で汚された電柱を清掃している映像だったそうです。遅すぎますがごめんなさい。

2025年12月15日

  • わかくさの歴史・・・古い集合写真は?運動会だった。
    古い集合写真がある。
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    時代はわかるのだが、何の集合写真か?さっぱりわからなかったのだが、やっと判明した。三島の郷の運動会に招待された時のものだ。
    三島の郷が1979年10月に開所し、もちつき大会、運動会などの行事に参加させていただき交流も盛んだった。また、わかくさから、三島の郷へ仲間の仕事を回したりすることもあった。
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    証拠は顔ぶれと、服装が決めてだった。
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    但し、この時代、毎日いつでも、何処でも同じ服装の○○もいるのでこの人の服装は参考にはならなかった。

2025年12月13日

  • わかくさの歴史・・・ボーイスカウトの皆さんと
    母子寮跡時代、富田本照寺に拠点を置く日本ボーイスカウト第一団の方々との交流が始まりました。4~50名のボーイスカウトの少年たちがわかくさのまわりの草取りをしてくださったり、お昼ご飯にカレーご馳走になりました。1983年には本照寺敷地内で合同キャンプに招待されました。
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    仲間達にとっては、キャンプファヤーやテントで寝るなどの経験はめったにできない経験でした。
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    本照寺は1427年に創建。江戸時代には富田御坊として多くの人が集まった歴史ある寺院です。
    ある年、ボーイスカウトの団長?K藤さんから本照寺で初詣の方々に建設募金訴えようと提案がありました。
    ボーイスカウトの皆さんと、わかくさ関係者で募金箱をもって寒い大晦日の深夜、12時の開門と同時に本堂をめざす多くの参拝客に認可施設建設募金を訴えました。
    たき火はあったものの寒かった事。甘酒で暖まった事は覚えています。
    あの時のボーイスカウトの団員(少年達)は今は50歳を過ぎていると思います。お世話になりました。

2025年12月12日

  • わかくさの歴史・・・ボランティアグループありんこ
    ボランティアグループありんこを語らずして、わかくさの歴史は語れない。
    その当時、ボランテアとは奉仕者といわれ、活動は奉仕活動と言われていた。
    そんな、時代に『ありんこ』が結成された。
    『ありんこ』の名前は、小さなアリでも力が集まれば大きな力を発揮するということからついた。
    会則代2条(目的)では、

我々は、すべての人が人間として暮らせるコミニティー(共同体)を築くために、様々な問題を自分たちの問題としてとらえ、奉仕としてではなくお互いに助け合うことを当然の認識として、より人間らしいコミニティーづくりと自分自身向上及び会員同士の友好を目的とする。

すばらしい!今の時代でも通用する。誰が起草したのか?わかりません。
資料には残っているが、頭、記憶には残っていません。
障害者団体からの依頼に応える活動もほぼ毎月あった。
ありんこ独自の行事(ハイキング、忘年会、キャンプ)も懐かしい。

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保津峡での初めてのキャンプは野宿のようなものだった。

今のようなアウトドア用品はまだない時代。
料理の火はすべて拾い集めた薪だ。ご飯は兵式はんごうで炊く。
テントは黄色の布地の三角屋根。
トイレは地面に穴を掘って囲いで目隠し。

夜中に川に浸かって水遊び。(投げ込まれたそうだ。・・投げ込んだのは私ではない。)

メンバーの多くは20歳前後の勤労青年や学生たちだった。

わかくさとの関係は、
1973年高槻肢体不自由児父母の会(ひまわり会)の当事者青年の会(ひまわり青年部)が結成され、障害を持った青年達との合宿、芋ほりや、クリスマス会などの行事を一緒に取り組んだ。
後に、この障害持った人達がわかくさの仲間になるのにあわせて、ありんこのメンバーもわかくさと関わるようになったが当初は中心メンバーではなかった。
文化住宅時代、街頭カンパ、バザー、会議などにも参加するようになり、いつの間にか作業所を自分のこととしてとらえるようになって、わかくさにとっぷりつかっていく。
ありんこの行事に参加するだけではつかみきれないものを求めて集まる。そして、わかくさを支える1本、1本の柱になっていった。

2025年12月11日

  • わかくさの歴史・・日曜教室・日曜作業教室
    日曜作業所は常設の作業所以前の日曜日ごとの作業所の事です。
    今回取り上げる日曜教室は、毎日開所になってからも日曜教室・日曜作業所教室を開所しました。ゆえに年中無休の『わかくさ』でした。
    当時のパンフには

    日曜教室・日曜作業所教室
    日々の取組とは別に、毎週日曜日に、もっと学びたい、もっと知りたい、つかみたい要求を引き出し可能性を見つけ出し、1つ1つ実現する場として日曜教室・作業教室があります。
    日曜教室では、算数、国語、おえかき、裁縫など仲間集団、ボランテア集団が一緒になって、仲間の持っている可能性に挑戦し、今まで『あんたにはムリや』と言われ、何の取り組みも保障されなかった仲間に、一個人の人間の当然の要求として、また、より豊かに生きていくことをめざして取り組んでいます。
    作業教室では、働くことの厳しさや喜びをまだ知らされていない仲間、日曜しか通えない仲間に、実際の仕事を通じてそのことが実感をつかめるよう取り組んでいます.

    具体的に、日曜教室では、ゴミ袋を改良して竹ひごと紐をつけて凧をつくって公園であげたり、紙粘土で鬼の面づくり、ダンボールのトーテンポールつくり、習字、絵画、編み物、算数、音楽などボランティアが大活躍。平日とは違う取り組みをおこないました。

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  • 春には花見、秋には運動会、冬には餅つきなどの行事なども行いました。
    仲間も職員もボランテアも盆・正月の閉所日以外は毎日、『わかくさ』とにかく集まりました。
    ボランテアの存在なしでは『わかくさ』は語れません。
    平日も学校や仕事終えて6時・7時ごろから9時・10時ごろまでが活動の時間です。
    風呂なしのアパートに住んでいた人間にとっては終わりの時間は重大な問題でした。
    銭湯には夜11時までに入る必要がありました。今日こそは風呂に入りたい!。目先ではあるが人間らしい要求だったのです。。
    バザーの日の注意事項

    ○前日は入浴して、無臭の状態でバザーの成功に協力しよう。には現実味があったようです。

2025年12月10日

  • わかくさの歴史・・・働こう障害者も 働けるんだ 僕たちも
    みんなで築きあげよう 障害者の働く場を
    これは、共作連(きょうされん)のスローガンであり、わかくさのスローガンでもあった。
    1977年発行のわかくさパンフ“すべての障害者に働く場を”には、
    作業所づくりの3本の柱として以下の3点が記してある。
    ①障害の違いを乗り越えて、働きたいという要求を統一し実現させる場をつくっていくこと。
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             ハンガーのフックの組立
    ②どんなに重い障害を持った仲間でも、働くことの出来る場をつくっていくこと
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             せんたくバサミの袋いれ
    ③労働を通して成長、発達を保障する場をつくっていくこと
    私たちのこの運動の大きな特徴は、作業所の主人公は、あくまでもそこで働く仲間たち自身であるということです。それは、わかくさ作業所を単に働くことができる入れ物づくりに終わらせるのでなく、仲間達一人一人の要求を尊重し、仲間の持っている障害を理解し,その障害に応じた働きかけを通じて、仲間たちの能力を最大限に生かし、さらに成長、発達を目指した取り組みを、あらゆる分野で進めていくことを重視するものです。・・・・・1977年12月6日発行

2025年12月9日

  • わかくさの歴史・・働くなかでたくましく・・・そして楽しく
    働きたいという願いは、人間の基本的要求であり、それは、単に生活のための賃金を得るということだけでなく、“働く”ことをを通して、仲間とのふれあい、社会とかかわり合いながら生きる喜びが、人間としての限りない発達が約束されているからです。
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             スカートハンガー ゴムキャップをはめています。
    従来のようなつくられた入れ物(施設)ではなく、多くの人々に支えられ、障害者、青年みずからが、主人公として働け、障害の程度、種類が違っていても、お互いの可能性を認め合い、みがきあい高め合える厳しい、そして生き生きとした働く場、それが『わかくさ』なのです。
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              縫製の仕事も始まりました。
           仕事に人を合わすのではなく、人に仕事を合わす
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          そして楽しく、みんなで琵琶湖をいきました。
    他施設からお借りした、ワンボックスカーを連ねて琵琶湖に一泊レクにいきました。帰りに比叡山をドライブ。ところが坂道が登れなくなり降りてみんなで車を押して登りました。

2025年12月8日

  • わかくさの歴史・・・わかくさバザー
    バザーは、わかくさの自己資金づくりには貢献した最大の取組だった。
    9月末から11月中旬まで約2か月間の物品集め、値段付けなどの準備をしました。
    日曜日ごとに前日までに2度ビラを入れ、さらに、前日には宣伝カーで明日はよろしくと流し、当日は地域に仲間、父母、ボランティアが約30名リヤカーを引っ張りながら2か月間1軒1軒訪問しました。毎年約1000軒以上の家庭から物品の提供をいただきました。
    売上も、最高時は380万円。運営、経営を支える大切なイベントでした。
    新聞、テレビなどにも取り上げられ、高槻の秋の風物詩とも言われました。
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           日曜ごとの一軒一軒の品物集め お昼の休憩
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    1977年 第1回バザー 西武百貨店(1日) 40万円(文化住宅時代)
    1978年 第2回バザー 駅前デパート(2日間) 190万円(以降母子寮跡時代)
    1979年 第3回バザー グリーンプラザ1号館屋上(3日間) 300万円
    1980年 第4回バザー グリーンプラザ1号館屋上(3日間) 350万円
    1981年 第5回バザー グリーンプラザ1号館屋上(3日間) 350万円
    1982年 第6回バザー グリーンプラザ1号館屋上(3日間) 380万円
    1983年 第7回バザー グリーンプラザ1号館屋上(3日間) 380万円
    1984年 第8回バザー グリーンプラザ1号館屋上(3日間) 348万円
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              毎年多くの人でにぎわいました。
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           粗大ゴミではありませんよ。すべて商品です。
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    目標20万の倍の40万円だった初めてのバザー(1977年 第1回バザー)ビラ
    当時の運営マニュアルをみたら吹きだした。
    ○前日は入浴して、無臭の状態でバザーの成功に協力しよう。
    ○任務分担 :午前は顔の悪い班。午後は足の短い班。
    ユーモアがあふれていた仲間たち、時代だった。この時代にはハラスメントの言葉はない。

2025年12月5日

  • わかくさの歴史…給食(水曜日)が始まる。1980年
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        母子寮跡 作業所室内 前の壁には手作りの黒板(緑)
      上には模造紙にグラフ カレンダー販売1万本突破をめざして
      1本1本のカレンダー販売で実りある国際障害者年の幕開けをはかろう!
    無認可時代、毎日弁当持ちの出勤だった。
    弁当の持参できない人(特に職員)は近くの弁当屋(ほっかほっか弁当)から買ってきた。財布の中身次第で近くの食堂に食べに行く日もあった。食べ終わって中身が無い時もあったが当時は許された。
    ほっかほっか弁当が誕生したばかりの時代で、コンビニはまだない。
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    給食と言っても、調理人がいるはずもなく、自分たちの食事を自分たちでつくる。(毎週水曜日)
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    どんな味でも、まずいという人はいなかった。きっといなかった。と思う。
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カレーの日。おかわりができない事で爆発した仲間に困ったのはしっかり覚えている。
当時の職員は3名。すべて男性。
3名そろって飯をつくれそうな人ではない。

きっと、女性ボランティアか、お母さん方が手伝っていたのだろう。
ボランティアで栄養士の人がいた。150円以内でごはんを中心とした4種類(1か月分)の献立を頼まれたそうだ。仲間も参加できる条件もついていたようだ。

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   調理実習もかねて当番制で仲間の皆さんが給食を作ります
      写真右 大型シンク  松坂屋労働組合さんの寄贈です。         

2025年12月4日

  • わかくさの歴史・・・夏になったらテキヤさん
    タコ焼き、綿菓子、かき氷、イカ焼き・・・・いろんな事をやりました。
    毎年7月末から8月末までは、夏祭り(夜祭)のシーズンだ。
    母子寮跡に移ってから、高槻祭り、富田団地や下田部団地などの地域自治会の夏の祭りに参加するようになった。
    初めの頃は商売よりも、わかくさを市民に知ってもらう事に意義があったと思う。
    販売商品も、仲間がつくった『洗濯ばさみ』が主力だった。
    回を重ねるたびに、水飴、わらびもち、おでんなどの食べ物や自作の風車やデンデン太鼓とネタが増えた。
    毎年、夏祭りが近づくと、その年の責任者を中心にアイデアをだす。
    『ところてん』の店を出したことがある。目の間で『天突き』で押し出す。珍しがられたがさっぱり売れなかった。
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           水飴うり             手作りの風車はいかが
    ある年から、松屋町(大阪市内おもちゃ問屋街)に、おもちゃを仕入に行くようになった。
    半ズボンに、草履ばき、首にタオル、髭面、日焼けした肌。いつの間にはテキヤの兄ちゃんに変身していた。
    言葉づかいも、『おっちゃん 今年のあたりは何や?』と聞いていた。
    この頃からは、しっかり商売にも力が入った。
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       揃いのはっぴはボランティさんに生地と型紙を渡して縫ってもらいました。
    商売のコツもわかってきた。客になったつもりで考えろ。だった。
    かき氷屋さん。同じ値段でも行列ができる店とできない店がある。
    大方の客人は、行列がある店に並ぶ。
    店主がいった。行列を切らしたらおしまい。絶えず数人の行列ができているように作るスピード調整するそうだ。
    金魚すくいは、数匹の出目金などの目立つものを入れておくと、客はそれを狙うからすぐ破れる。
    また、客が少ない時は厚手の紙を渡し、増えてきたら薄手の紙を渡して客をさばく。(やった事はありません。)
    こんな話も聞いた。虫も人間も明るい所に寄ってくるだって
    明るくしすぎて電球でテント焦がしたこともありました。失敗、失敗。

2025年12月2日

  • 記念誌づくり・・この人は誰?昔の人へのインタビューが始まりました。
    昔むかし『あの人は今』というテレビ番組があった。
    先日、わかくさ発足時(1976~)作業所作り運動の中心メンバーに集まっていただいた。
         画像の説明
    何十年もお会いしていない人も駆けつけてくれました。
    あの人は今ではなく『この人は誰?』だった。
      画像の説明
    向って左の女性は記念誌作成担当施設長ゆえに(やや)若い。他は敬老メンバー
    中心メンバー(ボランティア)は7~8人(むかでグループと呼んだ。)半数以上の方が亡くなられた。ごく、限られた当時を語れる方々だ。50年は長い。

2025年12月1日

  • わかくさの歴史・・俺も生きたい
          画像の説明
    作業所紹介 パンフ
      画像の説明
    パンフより転記『おれのわかくさ)

おれのわかくさ
 自分の障害を洗たくバサミとカギの作業ぶつけ、その中で働くきびしさを知り、金の価値を知り、生きるよろこびを知る事ができました。
 働くなかでオレも人間なんだ。オレと一緒に生きてくれとさけぶ事ができます。
それを真正面から受けとめ一緒に考え答えてくれる仲間がいるのです。
 自分の一生をかけてオレにぶつかってくる人間。
そんな人間の中で、自分の人生をみつめなおし、みんなでもえあがるものを、たしかめ合うあうことができる『オレの作業所』なのです。
みんなが力を合わせて、毎日一人一人が肩をたたき合いながら『君も生きているかい!』聞くことのできる『オレのわかくさ』なのです。
それは、人間が働く事によってえる生きる力そのものなのです。ただ障害者のためだけではなく、人間の生きる姿をもとめ合い、たしかめ合うことができる『オレのわかくさ』なのです。 鳥本二三男

  鳥本IMG_20201001_0024.jpg
         センタクバサミの組立作業

     ♪♪ かがやくなかま ♪♪

      キラキラ かがやく みんなの顔

      俺の まわりは 働く仲間

        働くことの きびしさを

       生きることの 尊さを

      からだいっぱい 受けとめながら

        生きる力を もとめあう

      キラキラ かがやく 大きな仲間


2025年11月28日

  • わかくさの歴史・・もっとつかみたい働くよろこびを(母子寮跡時代)
    1978年6月に広い場所に移転後、毎年仲間が増え続けました。
    画像の説明
              センタクバサミの組立作業
             当時のパンフレットには
パンフ20251128.jpg

わかくさ共同作業所はこんなことをしています
※仕事 スカートハンガーなどの下請け作業と、
 自主製品としてセンタクバサミの仕事をしてい
 ます。
※学習 毎週木曜日の午後や日曜日の日曜教室に
 『話し合いの時間』『デパート学習』『版画』
 『スポーツ』・など、仲間 の要求に合わせて  
 計画、実施されています。
※行事 夏の一泊レクレーシュン、餅つき、
 ソフトボール大会など、話し合いで、みんなが
 楽しく参加できる行事が計画されています。

月曜日から土曜日は通常の開所日。
日曜日は日曜教室の開所。お盆休みと正月休み以外はほぼ毎日開所していました。
原田.jpg
        スカートハンガーの組立作業

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        スカートハンガーの組立作業
画像の説明
      一泊研修会 高槻市高槻市森林観光センター  1979年7月
何を研修したか?まったく覚えていません。夜遅くまで酒を酌み交わした記憶はあるのですが!!

2025年11月25日

  • わかくさの歴史・・・総会・・議案書づくり・・・ある年には
    無認可時代 毎年6月には作業所づくりをすすめる会の総会を行った。
    議案書の目次をみると、

1、はじめに
  ①社会保障社会福祉をめぐる情勢
  ②わかくさをめぐる情勢

議案書4.jpg

2、わかくさ1年の動き
  ①中身づくりの実践
  ②わかくさ作りの運動
  ③共同作業所の運営
3、会計報告
4、会計監査
5、運動の基調
6、実践の方針
7、運動の方針
8、運営の方針
9、予算。となっていた。

B5版にすると約60ページ。ワープロもパソコンもない時代だ。すべてが手書き。

議案書づくりは大変な仕事だった。まず、目次のテーマごとに原案を書く人が決まる。
原案ができたら(なかなか書けない)持ち寄って修正を加える。
次に、人が読むことに耐えうる文字を書ける人が清書する。
そして、印刷、丁合、ホッチキス止めで完成。
約1ヶ月かけての議案書づくりは、毎回決まって当日ぎりぎりだった。
画像の説明
   第5回わかくさ総会 1981年6月21日(会場:わかくさ(母子寮跡))
ある年の議案書は前日の夜にやっと完成した。
完成した時の安堵感と達成感。その夜はお酒を飲んで爆睡。
翌日、わかくさの中心の者は寝坊して全員が総会に遅刻した。来賓の高槻市社会福祉協議会の会長さんがカギの開かない会館入口におられた。
高槻市助役も歴任された会長さんには、その後もお叱りも受けたが、高槻市が横を向いていた時でも、大きな支援、応援を頂いた。感謝です。

2025年11月24日

  • 私を捨てないでね
    朝夕は暖房が欲しい季節だ。
    エアコンや石油ストーブと違い薪ストーブの温かさは格別だ。
    炎は心を癒し、身体の芯まで暖かくなる。
    テントの中で使用するキャンプ用の薪ストーブも人気だ。
    オークションで中古を探してみたが送料を含めると安いものではない。
    キャンプ用の商品を参考に廃材(鉄板)を集めて自作してみた。使い始めて4シーズンめになる。
      画像の説明
       やかんの中は焼酎お湯割り用    日の出を待つ生野高原の朝
    2025年11月22日。火入れ。燃やす薪も廃材だ。
    廃材で作った薪ストーブで廃材を燃やす。
    人間も物も同じ。使い方、使われ方次第で役に立つ。
    私を捨てないで。役に立つこともありますからとつぶやいた。(誰に?)

2025年11月21日

  • 思いだせなくてごめんなさい 『高校生の手作りコンサート』
    50周年記念詩づくり。来週には創設期の関係者への取材がある。
    当初のメンバーの半数以上の方がお亡くなりなっている。
    遠方の方、音信不通の人もいるので呼び掛けられる人数も限られる。
    取材の趣旨を伝えると、そろって第一声は、『おぼえているかなー!?』だ。
    思い出してもらう手助けに簡単な資料をお送りしたのだが・・・はて結果は?
      画像の説明           
       高校生の手作りコンサート 『みんなで広げよう わかくさの輪コンサート』

じつは、私も同様だ。
手元の古い資料をみて明らかに私が書いた文章だが・・・・記憶にはない。
『高校生の手作りコンサート』この時の写真に私も写っていたのだが・・・・記憶がもどらない。50年はながーい。
年をとると、昨日の事は忘れても昔のことは覚えているというが、どちらもあぶない。
かすかに思いだすヒトコマ、1ページが、きっと、きっと、昔の仲間が集えば、記憶が繋がるはずだと望みを持ち続けている。きっとボケ防止になるはずだ。
  画像の説明
     高校生の手作りコンサート わかくさ横の広場
この人たち(高校生)も今では50歳代ですね。ありがとうございました。
でも、でも、ごめんなさい。この日こと。思いだせないのです。ごめんなさい。 

2025年11月19日

  • わかくさの歴史・・・母子寮跡に移転して
    母子寮跡に移ってからの取り組みは規模も大きく質的にも違ったものでした。
    地域には『知って下さい』から『わかって下さい。一緒に作って下さい』と一歩前に出た取組でした。
     画像の説明
        母子寮跡時代  作業の中心となったスカートハンガー
    手前のおばあさんは、『家にいても暇だから私も手伝う』と、こられたご近所の方
  • 仲間が増える。仕事も増える。
    仲間3名ではじまった文化住宅での準常設時代
    母子寮跡の広い場所に移転後、たちまち在宅から、養護学校(支援学校)からと仲間(通所者)が集まりました。近隣他市にまだ作業所がない時代、茨木市、島本町、枚方市からも通所。移転2年後には20名を超える仲間たち。最終年1984年には40名になりました。
    新たな仕事づくりも課題になり、洗濯バサミに加え、自転車の鍵の組立、やスッテプル、ハンドバックの台紙折りなどにも挑戦しました。スカートハンガーの組立作業は認可後も続きました。
    画像の説明
  • はじての公的助成金の獲得
    母子寮跡に移転したこの年(1978年)は、公的な助成金(大阪府簡易心身障害者通所授産事業助成金)が初めて制度化された年です。
    これにもひと波乱がありました。
    大阪障害者作業所連絡会を中心に大阪府に制度確立を要望し大阪府は1978年度当初予算に6か所の助成金を予算化しました。しかし、わかくさは含まれておらず高槻市はわかくさに助成する意はないという態度でした。
    市町村助成のため窓口は市町村です。申請締切2日前にそのことを知り高槻市と緊急交渉の結果12月補正で予算がつきました。
    当時の助成額は年間77万円とわずかですが、行政の扉が、また一つ開いたことの喜びとともにやってきた事が確信となりました。
    画像の説明
  • 運動も飛躍的に拡大
    第2回わかくさバザーは、駅前デパートで2日間開催。2か月前から準備をしました。
    日曜日ごとに前日までに2度ビラを入れた地域に仲間、父母、ボランティアが約30名リヤカーを引っ張りながら2か月間1軒1軒訪問しました。
    約1000軒の家庭から物品の提供をいただき売り上げも目標の100万の2倍近い190万円でした。
      画像の説明
      第2回わかくさバザー 駅前デパート 1978年

年末のカレンダー販売も前年の2.5倍5000部を売りつくしました。
高槻祭り、富田団地まつりなどへの参加もこの年から始まりました。
それまで運動の外にいた利用者の父母も、高槻まつりで、おでんの販売する。バザーの地域回り、値付けなど奮闘。どっしりと家族もわかくさづくりの主体になってきました。
画像の説明
          写真は 1981年 仲間と職員
一粒のからし種が確実な発芽し、より大きな木と成長し始めた時期だった。。

2025年11月17日

  • 涙はこころの肥やしだ。
画像の説明

最近、わかくさ50周年史の出版にむけて半世紀前の資料を読み返しながら“つぶやいて”きた。
昔むかしの資料を開く。手書きの文字、書きぶりで誰かがわかる。
熱き時代、誰もの目が輝いていた。懐かしさもあり。◎◎◎◎もある。
最近、少しへんなんです。心が
晩酌をチビリちびり。昔の映像が浮かんできて、涙が止まらない。
へんなんです。自分でもわかるんです。おかしいのです。
いろんな事があった。有りすぎた。
でも、涙をこらえるのはやめよう。
涙は心の汗だとういう言葉がある。汗だけではない。こころの肥やしだ。
思えば、何度もなんども涙をながし、歩き続けた50年だった。
また、次の一歩に向かってを歩きます。涙をながしながら
    画像の説明
わかくさの歴史編・つぶやきは、入口に入ったばかり。まだまだ続く。
    ○1980年ごろ わかくさの歌も生まれた。

♪♪ かがやくなかま ♪♪

キラキラ 輝く みんなの顔

おれの まわりは 働くなかま

働くことの きびしさを

生きることの 尊さを

からだいっぱい うけとめながら

生きる力を もとめあう

きらきら輝く 大きな仲間

2025年11月13日

  • わかくさの歴史・・・1978年6月11日 わかくさ作業所開所式(母子寮跡)
    母子寮跡使用の市長決裁は1978年5月20日でした。内部改造、トイレの新設、スロープ設置など作業所として使える様に改修工事。
    元々、母子寮だったので廊下の両面に居室が並び、居室の中に押入れがあった。仲間、親、ボランテァ総出でバールや掛矢(大きな木製ハンマー)やツルハシで壁や押入れを撤去。仕上げは、親でもあった工務店にお願いした。
    そして、迎えた喜びの開所式 時は1978年6月11日午後1時。

    画像の説明

母子寮跡獲得にいたるまでは、20代後半から30代前半の若者が中心でムカデグループと称していた。その周囲に、ボランティアグループありんこの20歳前後若者がいた。
今から思えば、無謀な若者が、群れが市役所、市長を相手に事をおこすなんて!

わかくさニュース19号から 1978年7月2日発行(6月11日の開所式報告と決意)

1978年6月11日 わかくさ作業所開所式
この日こそ私たちが運動を始めて2年あまり、まさに悲願ともいえる運動上もっとも心躍る記念すべき日だったのです。
2月6日、市長交渉において、思いがけず要求が入れられ、改めて、自分たちが市民の皆様に支えられ、この町に築いてきたものの確かな成長を、涙ながらに確認し、さらに獲得できたものの上に、いかなる飛躍的な質を築きこめるか胸を躍らせました。
どしゃぶりの雨の中にもかかわらず、駆けつけてくれた人は約70名。
参加者の顔は、まさに、これからの作業所の成長を願い、支えようと決意する意気込みに満ちていました。
働く仲間は作業所で働くことの素晴らしさ、楽しさを泣き泣き訴え,お父ちゃん達は、子供の生きようとする力に動かされ、自分もあらたに子供と共に生きようとする喜びを語ってくれました。
ボランティアにとってこの時ほどこの運動にかかわってきたことの幸せを、率直に心のひだまで感じた事はありませんでした。
ボランティアは障害を持つ、働く仲間に人間の根底において支えられている事の喜びを実感し、働く仲間の一つ一つの言葉が、己の事として心にしみ通り、ゆり動かしました。それは働くなかまにとっても同様のものであり、障害者、健常者の違いがある事さえ忘れ、共に支え合って生きてゆく事の素晴らしさを実感することができました。
この人間関係の新たな質こそ、わかくさが労働を通し、活動を通し、築きあげた最も大きな収穫でした。
しかし、この運動は、高槻市全体にとっては、芽をふいた一粒のからし種でしかなく、この確実な発芽が、より大きな木と成長し、鳥が群がるまでにはまだまだ困難な月日が来ると思いますが、市民の皆様の支えがあり、この豊かな共感関係のある限り、確実な運動の成長が保障されるものと確信しています。

画像の説明    
      母子寮跡 元は陸軍工兵隊の建物:現在は城跡公園(城内町)

この時代、わかくさと同じくして全国各地で作業所づくり運動の芽がふき始めた。
1977年8月には共同作業所全国連絡会(現在のきょうされん)が16か所で結成された。
翌1978年6月に第1回全国集会が東京で開催された。
大阪でも1977年9月に大阪障害者作業所連絡会(現在のきょうされん大阪支部)が6か所で結成され大阪府に公的な助成制度の確立を訴えた。
吹田市、岸和田市は先進的に行政の支援があったが、高槻市、東大阪市、大阪市は全く無縁で見通しすらなかった。
岸和田市の行政の支援のもとで作業所づくり始まった新聞記事を読んだお母さんが噛みついた。わかくさは無謀だ。無茶だ。行政の支援がないのに始めるなんて。と
ある人が言い放った言葉がある。さつき(吹田市)は、行政が作った。
岸和田は職員が作った。ひびき(東大阪)は、親が作った。
わかくさはボランティアが作った。と
母子寮跡に移転して親も群れに加わった。大きな節ができた。
障害を持った仲間も増え続けた。
若者たちが、学校や職場ではつかめない人生を、生き方を求めて次々と増えてきた。
      障害があろうがなかろうが
        君の行く道は 果てしなく遠い
        だのに何故 歯を食いしばり
        君は行くのか そんなにしてまで ・・・・と、こころのなかで 
次の“わかくさ”づくりが始まった。

2025年11月12日

  • わかくさの歴史・・母子寮跡を勝ち取った戦い
    勝ち取った戦いと表現はキツイがまさに実感でした。
    日曜作業所を始めた1976年、公的な場所を求めた請願署名(1万2千筆)。高槻市議会で採択されました。請願の採択はあったものの、高槻市の壁、扉を開くには10回を超える交渉を行いました。
        画像の説明
             作業所の開設場所を求める請願書
    高槻市交渉1回目は1976年7月から始まり、その後9月、11月。翌1977年1月には助役交渉へと続きました。
    福祉部との交渉では『わかくさの実績が無い。』『他団体と共同で受け皿をつくれば考える。』ある時は『わかくさ作業所作りを進める会の解消を条件』など実績を認めず、絶対にのめない条件を出してくるなど先のみえないまま月日が過ぎます。
    しかし諦めることはできません。助役交渉でも、わかくさの団体としての中身が不明確。貸せる土地があれば売ってでも赤字の穴埋めにしたい。などと一歩の前進もありませんでした。
    大きな前進のきっかけになったのは、文化住宅に、高槻市長の訪問(1977年4月)を実現した時の涙の訴えからでした。訴えに対し市長の『なんとか応えたい』の(もらした)一言でした。
    しかしながら、その後の福祉部との交渉では、進展するどころか母子寮跡は撤去する予定だ。とうい発言までとびだしました。
        画像の説明
        臨時ニュース(緊急号) 昭和52年9月22日発行
    8回目(1978年2月)は市長交渉に臨みました。見学の時の約束(なんとか応えたい)を守って欲しいと直接交渉。この交渉で、市長より母子寮跡使用認める回答引き出しました。
     市長からは以下の条件が示されました。 
     1)議案書の一部削除
     2)諸設備などの権利を主張しない
     3)同敷地内の、つきのき学園、療育園の移転時の立ち退き
    検討の結果借りることに合意したのですが具体的な詰めの段階に入って、福祉部長名で13項目にも及ぶ付帯条件が出されてきました。
    付帯条件の中で特に難航したのは、日祝使用不可。平日も5時までという使用日時制限でした。
    これは、わかくさの運動がなくなることにつながりかねないだけに絶対にゆずる事ができないものでした。
    最終的には機械警備を設置するということで解決し5月20日市長決裁がおり、念願の母子寮跡を獲得する事が出来たのです。
    1978年6月11日 わかくさ作業所開所式。
    この日こそ私たちが運動を始めて2年あまり、まさに悲願ともいえる運動上もっとも心躍る記念すべき日だったのです。

2025年11月10日

  • わかくさ芽生え その3  文化住宅時代 1977年
    1977年5月9日から仲間3名で毎日作業所が始まる。場所は城西町の文化住宅・宮崎荘102号室
    画像の説明
        日曜日には部屋に入りきれないので外でも作業をしました。

プレハブ建設をめざし、仮設事務所として確保したところだ。6畳2間、家賃2万5千円。
それまでのジプシー生活から脱却。みんなが集まれる場所の確保は運動の発展に大きな意味があった。
日曜作業所時代は、関係者が会議をする場所もなく、メンバーの個人宅や近くの喫茶店だった。
場所が定まった事で、マスコミや大阪府の厚生係長の訪問もあった。
学生や仕事がえりの青年たち。ボランティが日常的集うようになった。
目標のプレハブ建設は頓挫したが、仲間が毎日通える場所が実現し、安定した職種、せんたくバサミの組立作業(ゆたか福祉会の協力による)も軌道にのってきた。
しかし、定まった販売先はなく、せんたくバサミ(商品)の在庫が溜まりにたまる。
 画像の説明
  作業テーブルは粗大ごみの食卓の脚を短くしました。
せんたくバサミ販売を通じてわかくさを広げる方法を考える。
リヤカーに積んでご近所めぐりやイベント会場などで出帳販売から始めた。
知り合いの商店から粗品用に使ってあげるなど嬉しい申し出も出もあった。
見知らぬ人が、これなら協力できると、みかん箱いっぱい持ち帰り知人に広げて頂いたこともあった。。
この年ではないが、富田団地の方が夏祭りで売りませんか?お誘いがあった。
祭りに、せんたくバサミは不似合と思ったが、その方が前行く人に声を掛け売り切った。(やや押し売りだった。)
7月には、初めての職員採用。(当時は専従指導員と言っていた。)
ひと月5万円の給与財源は協力者からの借り入れ(債権)で100万円を集めた。
画像の説明
    せんたくバサミ 商品チラシ     市民からの借入(債権)
初めてのバザーもこの年から始まった。(西武百貨店 40万円)。カレンダ-販売もこの年からだった。(2,050本)(おおよそ1本あたり300円の利益)
3名の仲間が、4名、5名と増えてきた。次年度の入所希望の相談もあった。
この場所は、仮の場所である。もっと広い場所が欲しい。高槻市に公的な場所を求め続けた。毎日ように夕方から事務局、ボランテァが夜遅くまで話しあった。

2025年11月5日

  • 今夜はこれで・・・・ ダバダ
    職場で、またコロナがぽつぽつ出始めた。
    仲間が休めば収入がなくなる。自立支援法:日割り制度は困ったもんだ。
    人手不足の中、職員が休めば現場に穴が開く。
    契約制度は福祉現場の働く魅力を奪った。福祉人材不足の真の原因だ。
    もちろん、世間並みの給与が支払えない制度設計、公定価格の低額問題もある。
    コロナには、わたしは、たばこで肺を毎日鍛えにきたえ、体内を毎日消毒しているから今日まで無縁だ。まわりからは、病院にも行かず調べてないだけ。また、バカなことばっかり言って。と言われているが・・・・
          画像の説明
           高知県の名酒らしい 栗焼酎 ダバダ火振
    栗で焼酎をつくるなんておもしろい。
    高知県:県民性と検索すると、「酒を酌み交わせば誰とでもすぐ親しくなれる」「とにかく心が温かくて、誰にでも親切」といった特徴。とあった。高知県は酒なしでは語れない。
    嬉しい頂きものだ。今夜はこれで口から体内消毒。コロナにまけないように

    追記 11/7 飲酒後の感想です。
    飲みたいだけの焼酎は濃いめの水割りで飲んでいるが、
    ダバダはストレートが合う。香りもいい。なめるようにチビチビ。これはいい。

2025年11月5日

  • わかくさの芽生え その2 日曜作業所時代から文化住宅(準常設)へ
    1971年5月9日:ささやかながら、その実現への一歩をふみ出した日。
    毎週日曜日ごとの作業所がこの日から始まった。
    わかくさの命名もこの時期だった。『そこに来れば働くことができ、語り合い、楽しめる場』として在宅の仲間を誘った。
    場所と仕事の確保は大きな課題だった。市民の好意で、建替え前の住宅を3か月間お借りすること出来たが、その後は定まった場所はなく、事務局は1回、1回の場所探しに(自治会の公民館や共同保育所など)に追われていた。直前まで場所が定まらない事もあった。
          画像の説明
          場所を転々としながら続けた日曜作業所 八幡町公民館
    仕事の確保では、仕事は市内の弱電メーカーが内職の仕事提供してくれた。(電気のコード折を4つ折りしてビニタイで止める)。
         画像の説明
           初めての仕事です。電気のコード折の仕事
    簡易な作業もあったが、障害がなくとも熟練がいるような不向きな内容の仕事もあった。また、日によっては預かった量を仕上げるのが必死だった事もあった。様々な問題をかかえながらも日曜日ごとではあるが、集える場ができたことで支援の輪も少しずつだが広がってきた。
    すすめる会の目標は毎日働くことができる作業所であり、高槻市議会に対し『作業所の開設場所を求める請願署名』運動に初めて取り組み12000名もの署名数が集まり、市議会で採択された。
    しかし、請願は採択されたが高槻市との交渉はたやすいものではなかった。実績が無いから始まり高槻市財政は厳しいなどと約2年間続く。
    この時期、市民から土地の提供の申出がありプレハブを建設する計画を進め街頭でのカンパ活動など建設資金づくり(目標200万円)も始まった。
    計画を進めるために1977年2月に仮設事務所として文化住宅確保。
    初めて朝日、毎日、読売、などの新聞に取り上げられた。
    新聞(読売)は下記の内容だった。
  • 身障者工場 建設にメド 高槻 会員は80人に
    障害者自身の手で仲間が働ける場を作ろうと、高槻市の障害者とボランティア達の青年で結成している『作業所づくりをすすめる会』の熱意が実り・・・・作業所を建設するメドがついいた。すでに土地を提供したいという温かい申し出もあり・・・・・・カンパで建設資金の積み立てに励んでいる。国鉄高槻駅前で車椅子で訴えた結果10日間で32万円集まった。・・・今年中にはクワ入れをして見せるとみんなの夢は大きく膨らんでいる。1977年4月15日

建設図面や建築費の試算などの検討を始めていたが、突然予期せぬ一報が届く。
土地を貸すことが困難になったというお断りだった。
喜んでいた期間は短すぎた。
しかし、落胆した期間は不思議にも短く、プレハブ建設がだめなら、この場所、初めて手にした城『宮崎荘』で毎日の作業所を開設する事になった。
      画像の説明
      文化住宅 宮崎荘 城西町 初めて電話が付く 1977年3月
仲間3名だけの毎日通える、働く場がこの場所で始まった。(準常設と呼んだ。)
1977年、日曜作業所が正式に始まった同じ日の一年後。 時は1977年5月9日

2025年11月3日

  • 『わかくさ』の芽生え  一歩をふみ出した日・・1976年5月9日
    もうすぐ、わかくさが高槻で芽生えて半世紀になる。
    今日は、文化の日だ。終戦の翌年(1946年)日本国憲法が公布されたことを記念して、1948年に国民の祝日として制定されたそうだ。
    わかくさもいくつかの記念となる日がある。
    1975年(昭和50年)全障研埼玉大会が開催され養護学校(支援学校)を卒業した障害をもった青年達の働く場づくり運動が報告された。
    全障研高槻サークルの例会で高槻でも卒業後の進路は全く保障されていない実態から作業所づくりの必要性が確認され、作業所づくりに向けて世話人会を発足した。
    第1回準備会を1976年3月7日に開催、メンバーは高槻サークルや施設職員が中心で20歳代から30歳代前半の若者が多かった。
    全国の作業所づくりの経験に学び①どんなに障害が重くとも働ける場。②障害の種別を乗り越えて共に働ける場。③働く仲間が主人公の場。をスローガンに掲げた。
    1976年4月11日はじめての日曜作業所(野見神社)。
    場所もない。補助金もない。行政の応援も制度もない中でのスタートだった。
        画像の説明
          野見神社(野見町)初めての日曜作業所

その後、5月9日『作業所づくりをすすめる会』を発足。
また、この日5月9日から日曜日ごとの作業所が正式に歩み始めた。
この時代、障害者運動だけでなく市民運動そのものが、行政に陳情、お願いするスタイルだった。行政責任を追及しつつも出来るまで待つのではなく自らがゼロから作る事を市民共同の事業として始めたのだ。『必要なものは待つのではなく自ら作る』『市民との共同の事業として』に大きな意味があった。これは、のちに結成される共同作業所全国連絡会(きょうされん)作業所運動の特徴でもある。
当時の資料によると、『働きたいという願いは、人間の基本的要求であり、それは、単に生活のための賃金を得るということだけでなく、労働を通して、仲間とのふれあい、語らいがあり、そこに、人間としての限りない発達が約束されているからです。』
ささやかながら、その実現への一歩をふみ出した日。 時、5月9日とある。
    画像の説明
    
   ひよこ共同保育所(京口町)この場所から日曜作業所が正式スタート

2025年11月2日

  • あきらめていたのですが
    寒さを感じる日々。台所仕事もお湯がほしくなった。
    数日前、数か月ぶりにお湯を出そうとしたが給湯器のリモコンが点灯しない。
    リモコンの表示の問題ならお湯は出るはず。蛇口からは水だった。
    リモコンの接触不良かと取り外してみたが・・・・・・
    ちょうど10年だ。
    業者を呼んだら、おそらく修理をしようともせず交換を進めるだろう。
    2週間ほど前は、電子レンジが突然壊れた。又また続く出費。
    年を重ねるとともに壊れるのは、機械も人間も同じかとあきらめていたら「治せないの?」と素朴な質問がきた。
    昔むかし「靴の底が離れたので靴がないと言ったら、次の日には接着剤で補修されていた。靴を買って欲しいと言ったつもりだったのに!」とお叱りを受けた事があった。
    靴底を接着剤で補修していたら近所の人がのぞきにきた。そんな事が出来るのなら、私の靴も修理して欲しいと持ってきた。
    まだ新しく気に入っている靴だそうだ。修理した。
    ところが外出先ではがれて大変なめにあったそうだ。
    それでも、懲りずにまた修理を依頼された。また修理した。
    その後の結果は聞いていない。
    話はもどる。
    壊れた給湯器。たぶん無理と思いつつ、梯子にのぼり電源コンセントを抜く。
         画像の説明
    テスターで電気がきているか?少し時間をおいて再度差し込む。
    室内でリモコンをさわる。エー!ビックリ!!点灯した。蛇口からはお湯がでた。
    あきらめていたのですが。

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