つぶやき
管理人の我輩が、日々感じたことを気ままにつぶやくページです。

私がホームの管理者です
ほっこりする癒し話・クスクス吹きだす話・小さな暴露話・政治への怒りをネタにぼやきます。
★時間と心にゆとりがある方だけ覗いてくださいね。どうでもいい話ばっかりです★

2026年1月10日
- わかくさの歴史・・・みつばち作業所の移転と隠れ借金
みつばち作業所が誕生したのは、1984年。認可施設開所の一年前である。
現在の岡本町ではなく、わかくさ(無認可)母子寮跡の近くの文化住宅(城内町)である。
仲間が増え手狭になってきた事と、当時の補助金制度は一作業所ごとだったため2つの作業所にしたのだ。
1985年、念願の1期工事が完成したが全員が入所できたのではない。
その為、わかくさ第2共同作業所開所(現在のわかくさ敷地内のプレハブ棟)を建設した。(2期工事完成までの1年間だけの無認可作業所である。)

現在てんとうむしと呼んでいる建物
1985年 1年限りの 無認可 わかくさ第2共同作業所
さらに、すべての希望者を受け止めるため、みつばち作業所を移転し(城内町から岡本町へ)建設した。
みつばち作業所は、高槻市が建築費の独自助成制度を創設した最初の施設である。
地元の方々の壁が厚く話し合いに時間を要したが1985年12月に完成した。

みつばち作業所 1985年12月 移転 開所
短期間に、わかくさ1期工事、わかくさ第2無認可、みつばち無認可、さらにわかくさ2期工事と規模も仕様も違うが4施設の建設だった。
草の根募金で2500万円づくりを掲げ多くの皆さんの支援を頂いた。
それでも、資金繰りは大変であった。たらない部分は2千万円借入れた。
建設にかかる自己資金も大変だったが日々の運営も大変だった。
1985年からは、無認可作業所職員の給与も認可職員に合わせた。
認可施設の財源は、無認可には使えない。早速、ボーナスの時期に資金が底をついた。無認可職員の財源がない。
打った手は、認可施設の施設長はボーナスを受け取り、そのお金を貸付、無認可職員のボーナスにした。
みつばちの建設の自己資金はなく、1年の約束で家族から借りた。
約束の一年後、返せるお金はなく、借りれる人をつのり、その金をもって家族に返済した。
認可後5~6年先まで隠れ借金があった。母子寮跡時代とは違う苦労が始まった。
2026年1月9日
- わかくさの歴史・・・新施設になって 給食
母子寮跡時代、家族、ボランティアの協力をいただきながら仲間も調理に参加して週1日の給食を行っていた。
認可施設になって、楽しみにしていた毎日の給食がはじまった。

赤みかかった入れ物がごはんのおひつ。各テーブルに置きます
われ先に、おかわりは競争です
ひかりあふれる吹き抜けの食堂、美味しく、おかわりもできて・・夢の実現である。
調理実習もはじまった。

調理実習 お好みやき
いつも、いつも、お腹いっぱいだ。
栄養士の薄味の味付けになれない職員は、こっそり醤油をかけていた。
行事食、給料日に寄せてなどの特別な日はみんな楽しみにしている。
数年後のことだが、平和の取組の1つとして、戦時中の食事を再現する日があった。
そうとは知らず、職員の○○さんが、こんな給食は食えないと怒り出した。
吹き出しながら○○さんに説明したが納得してもらえなかった。
きっと、子供頃食べた思い出したくない味以上の味だったのかもしれない。

働く者(労働者)の忘年会 ビールはあたりまえです
※毎月の体重測定の結果、おかわり自由は1年も続かなかった。
2026年1月8日
- わかくさの歴史・・一期工事完成 1985年3月

わかくさ障害者作業所 右のプレハブは工事現場事務所
1985年(昭和60年)いよいよ建物が完成し、2月末に引渡しされ、3月23日に多くの皆さんとともに喜びの竣工式を迎えました。

わかくさ障害者作業所 竣工式 1985年3月23日
第1期工事知的障害者通所授産施設定員30名の施設が誕生しました。
総事業費1億250万円。国、府、市の補助金7千373万円。借入金1千万円。自己資金は1千377万円。自己資金は多くの皆さんから寄せられた草の根募金です。
ふりかえれば、やっと貸してもらった市の母子寮跡で、ほっとするまもなく『公園にするから立ち退け、後は知らん』と冷たかった行政。
それでも、どのとき、どんな場面でも支え続けて下さった市民の皆さんがいたからこそ、歩み続けることができ、今日の日を迎えることができました。
古いわかくさの3倍の広さです。出来上がったこの施設は、みんなの共同、共通の財産です。

ベルトコンベアから次から次へと製品が流れます
1976年 日曜だけの作業所から9年。
わかくさづくりが始まった頃、認可施設の夢はもっていても、夢の世界でした。
この人たちに、聞いてみたい?ほんとにできると思っていたの?

離ればなれになった方、亡くなられたも・・・あれから50年

1977年 第1回バザー(西武百貨店) 成功!打ち上げの様子
2026年1月7日
- わかくさの歴史・・古きわかくさへ 母子寮跡との別れ
わかくさづくりの運動をはじめて3年目、高槻市から母子寮跡の借用が実現し、1978年6月11日の喜びに満ちた開所式から約7年間。お世話になりました。
仲間の人数もふえつづけ、仲間にとっても、家族にとっても、ボランティアも、この屋根の下でおおくの夢を語らいました。数々のドラマも生まれました。
1985年3月 新施設工事完成とともにお別れです。

古きわかくさへ 岩井 清
さようなら 古き建物 私たちは今 出ていきます。
私たちにとって 新しい出発が始まりました
枯れた芝から 芽がふくとき 私たちは あなたを 出ていきます
あなたは 今まで 兵舎として 母子寮として
いろいろな思いを抱いた人達を見てきたでしょう
最後に 私達が出ていきます
私達も また 障害を抱きながら あなたにお世話になりました
祈ってください
私たちが枯れた芝から芽をだした、本当のわかくさになれるのを
そして できるなら 大きな木になれるのを祈って下さい
私たちも 強い風に吹かれながら 頑張ります
ありがとう 古き建物 古きわかくさ ありがとう
岩井清さんは、わかくさで働く重度の身体障害者の人でした。
就学猶予・免除が当たり前の時代で学校はいっていません。
割り箸を口に咥えキーボードを押さえ多くの文章を書きました。
短歌、俳句、童話、日々のぼやき、政治に対する怒りなど膨大な作品です。
岩井 清(いわい きよし)
昭和24年(1949)7月27日生まれ。 脳性麻痺1種1級。就学免除
昭和57年(1982)8月からわかくさ共同作業所(のち、わかくさ障害者作業所)に通所
平成20年(2008)年2月20日没、享年59歳
著書
1990年 『HOLD・THE・SUN』 発刊 (わかくさ障害者作業所印刷班)
1996年 『心の筆を走らせて:障害者の目に映る日々』発刊 (近代文藝社)
2009年 遺作集 『岩井清の世界』発刊 (かもがわ出版社)
発刊によせて 岩井清さんを偲んで 2009年2月
ありがとう 岩井さん わかくさ福祉会 常務理事 西山和幸
突然の訃報だった。前日まで元気だった岩井さんが突然亡くなった。
お別れの日は、2月だというのにあたたかい日ざしがふりそそいでいた。
『岩井清さんありがとう』。仲間の声に見送られた。
岩井さんと過ごした25年間。滑稽で不思議な時間だった。
岩井さんは、自ら口癖の『プロの障害者』として人生を楽しんだ。
人間らしく生きたいという心からの叫びは、理不尽な社会に怒り告発した。
『おーい、あのな、ちょっと』と呼び止められる。
そのたびに、心の中をグサリ、グサリかき回され、揺さぶり続けられた。
20年程前、施設長になり、なれないネクタイ姿で疲れている私を見て祭り好きな私に『西山指導員・・・・また一緒にたこやき売ろうな!』岩井さんからのメッセージだ。
できそこないの施設長を支え続けてくれたあたたかい友だった。
さようならはいいたくない。
2026年1月6日
- わかくさの歴史・・第1期工事完成直前 認可施設実現

完成直前のわかくさ障害者作業所(一期工事) 1985年1月
1985年1月15日発行 わかくさニュース・・はたらくよろこび より
まちにまった春 “わかくさ”今 新たな旅立ち
新年おめでとうございます。
今年は、わかくさにとって仲間の願いを具体的、本格的に実現できるスタートの年です。
その“トリデ”の『新施設』の開所という決定的ともいう節目の新年を迎えることができました。
春光“今”働く仲間の前に
いよいよ、4月からは社会福祉法人わかくさ福祉会として新施設開所。現状では実現できないくやしいひとつ一つのおもいに具体的にこたえていける条件が整います。
障害を飛ばして年相応の生活を保障するための『トリデ』が完成します。厳しい世の中でも働く仲間の前に、春の光が見えてきた。そんな気がしてなりません。
こんな事が実現します。
○印刷圧力45トンの大型活版印刷機では、名刺、封筒、はがきからビラ、ポスターまで印刷できます。
○ベルコンベアが並ぶ大作業室。次から次へと製品が流れます。
○食堂のコーナーを利用して仲間も調理に挑戦します。
○縫製部門では、コンピューター付ミシンで障害の重い仲間でもフキンなどの製造ができます。
○手織り機で袋物などの自主製品を製造します。
○相談室では、仲間、家族をはじめ、地域の障害児者の相談にも
2026年1月6日
- わかくさの歴史・・建築工事始まる
1983年12月26日 高槻市土地決定(郡家新町)から法人設立及び施設建設がうごきだします。翌、1984年1月に建築補助金の本申請。
5月末に建設補助金内示。そして実施設計。

建設工事説明会 1984年9月
9月に施工業者の選定で(入札)甲南建設工業(株)に決定。いよいよ来春の完成にむけて第1期工事(知的障害者通所授産施設30名)の建築工事がはじまりました。

第1期工事 知的通所授産 30名 1984年11月
その他に、1984年9月に、社会福祉法人設立申請。建設工事費自己資金の不足分を大阪府社会福祉協議会に借入金申請(1千万円)など書類づくりに追われました。
当然ながら、この時代パソコンはありません。電卓で計算します。文字は手書きが主流でしたが、少しずつワープロが普及し始めた時代です。

液晶部分が小さく3行?ぐらい。これで当時のB4規格の用紙全体を想像して文字を打ち込みました。これでもすごーい!感動しました。
2026年1月5日
- わかくさの歴史・・社会福祉法人設立
現在は、株式会社、有限会社、NPO等、法人格さえあれば障害福祉事業を行うことができます。
しかし、当時は、障害福祉施設は第1種社会福祉事業に位置付けられており、国および、地方公公共団体もしくは社会福祉法人のみが施設の運営を行う事ができることになっていました。きわめて公共性が高い事業ゆえに途中で投げ出す事もなく将来にわたり安定して運営するための非営利の法人格が求められていたのです。
あらたに建設する、わかくさ障害者作業所も法制度による施設運営を行うには社会福祉法人を施設建設と同時に設立する必要がありました。

わかくさ福祉会発起人会議 1984年9月 市民会館
社会福祉法人には、施設建設の補助金、退職金制度、税の優遇措置など大きな利点がありますが、法人運営には役員構成、決議方法、会計処理など細かな事が決められています。
法人設立趣意書
社会福祉法人わかくさ福祉会
障害者の『ぼくも働きたい』『仲間がほしい』との願いを実現するため、わかくさ共同作業所づくりをすすめる会は、無認可で、わかくさ共同作業所を運営、維持、発展させてきました。
わかくさは、この9年間、どんなに障害が重くとも、障害種別の違いをのりこえ、仲間同志、力を合わせ、働くことに主人公として参加し、働くことや、生きることの喜びを仲間自らのものとし、仲間、家族、関係者にとって、なくてはならない、かけがえのない砦(トリデ)に成長してきました。
行政からの運営費補助が乏しい中、わかくさの運営、経営は、何千人、何万人という地域の人々に、支え、励まされ、今日まで守られ、育てられ、地域の人々の共同、共有財産として存続してきました。
これら、9年間の歴史と伝統と、培われた共同の事業の礎(いしづえ)の上に、社会福祉法人わかくさ福祉会を設立します。
社会福祉法人わかくさ福祉会は、障害者の労働を『人間の基本的要求として、社会参加の機会として』とらえ、すべての障害者に働く権利の保障をめざし、たとえ障害をもっていても、同年齢の市民と同等の生活を享受し、社会生活と社会発展に全面的に参加することを実現し、全人生の総合的権利保障をめざします。
障害者の学校卒業後の課題は、未解決のまま山積しており、その対策は皆無に等しい現状に放置されています。真の「進路保障」の実現と、親なき後の、さらには、一人の社会人として生活しうる生活施設づくりをめざします。
その実現のためにも、地域の障害者、家族、関係者と固く手を結び、地域での障害者運動に積極的に貢献し、役割を担っていきます。その一環として、障害者、家族に応えるため、障害(児)者発達、生活相談所の設置をはじめ、障害者の総合的保障の実現のための研究、情報交換等の事業を行います。
“戦争がもっとも多くの障害者をつくりだす”“平和であってこそ、障害者の全面参加と平等は実現しうる”と国連は訴えつづけています。私達、社会福祉法人わかくさ福祉会のめざす事業のすべては、平和が守られてこそ、実現可能となるものです。地域の人々と共に、平和を守り、人々の生活を限りなく豊かなものにする事業を、共同して創造するため、歩みつづけます。
1985年(昭和60年)3月
社会福祉法人設立許可書 昭和60年(1985)3月23日 付 で手にしました。
以来、法人設立記念日をこの日に 3月23日 にしました。
2026年1月4日
- わかくさの歴史・・・設計が始まる
設計は基本構想づくりから始まります。設計者を交えて建物にどんな命を吹き込むか?と議論が続きました。大いに夢を語ります。仲間にとってどんな施設にするか?から始まり職員にとって?家族にとって?地域にとって?市民とって?社会にとって?と毎回テーマごとに意見を出し合います。その都度、設計者の『その心は?』と質問が飛びます。
わかくさ関係者の想いを1つに固めると同時に設計者と想いを共有する大切な最初の作業です。

先に認可施設を実現した 岸和田作業所にお話を聞きに設計者ととに
次に基本設計、実施設計と移ります。基本構想で描いた夢を形にする作業です。
年間、月間、週間、一日単位で使用方法、人の動き想像し、各室の大きさや部屋と部屋のつながり、設備などの検討を行います。
建築場所、敷地面積や形状、建築面積、床面積、都市計画法、建築基準法など様々な条件や制約が出てきます。そして、もっとも大きいのが資金による制約です。最初の夢から重要性の順列をつけて省けるものは諦めて次回の夢に託します。

完成予想スケッチ 1984・7.7 現状とはすこし違います
この経験から、私の口癖になりました。『施設建設は夢を実現するのではない。そぎ落とした後の一番大切なものが実現するのだ。ゆえに、その心は?が大切だと!』
2026年1月2日
- わかくさの歴史・・建設資金(自己資金)づくり
当時の施設制度は障害種別ごとになっていて、障害種別をとわず運営していたわかくさ共同作業所は、知的障害者施設と身体障害者施設をそれぞれ障害種別ごとに建設する必要がありました。
2施設を同時に建設する事も検討しましたが、国庫予算が厳しい中、申請しても2施設ともに補助金がつかない恐れから、先行して知的施設、翌年に身障施設を併設して建築することにしました。
共同作業所の運営では、仲間が増え、職員が増え、毎年、1000万円を念出するためにバザー、物品販売、廃品回収などの事業に全力そそぎながら、新たに施設建設のための自己資金づくりです。。移転先の土地のメドも見えず、ほんとに認可施設ができるのか?の声もありました。

建設工事費 自己資金についての学習
認可施設建設の申請時には建設に必要な資金があることが条件で残高証明書が必要です。建設費から補助金と借入金を差し引いた2,500万円が目標です。

進展しない高槻市からの市有地提供も自己資金作りを進めることによって見えてくると、1982年から、自己資金づくりを本格的に取り組み始めました。募金帳や募金袋を作成して、家族会やボランテイアに渡し協力をお願いしました。募金帳をもって隣近所はもちろん、商店街のお店一軒一軒に飛び込んで訴えたり、集会や職場で募金袋を回したり草の根の募金活動がはじまりましたがまだまだ必要額には足りません。
高槻市長の1983年度中に市有地を無償貸与する決定をうけ、土地があるのに資金がないでは話になりません。
1984年1月の国庫建設補助金本申請までの約1年間に第1期工事分の自己資金分の最低1,100万円が必要です。集まらなければ9年間の苦労も土地も無駄に終わる土壇場の運動でした。
家族は、自らはもちろん親戚に、ボランティアも自分の家族、友人、職場にと建設資金の運動が広がっていきました。
市内のすべての小、中、高の学校、保育所、養護学校の先生、様々なサークル、団体との9年間のつながりをたぐりよせ、あらたなつながりをつくることで建設資金は積み上げら目標の2500万円万円には届かないものの1年間に約1500万円が寄せられました。

高槻まつりでも市民に訴えました
引き続き、2期工事の自己資金1000万円づくりがつづきます。
2025年12月31日
- わかくさの歴史…認可施設建設用地(代替地)をめぐって
認可施設建設の課題で土地が決まるか否かは90%以上の比重をもつほど大きな問題です。土地を自力で購入して移転することは明らかに不可能です。
認可施設建設は運動を始めた当初より全国的な教訓として意識していたものの、日々の無認可作業所の運営全力をさかれ、建設資金は作れても現実的な課題にはなりえませんでした。
1981年2月の怒りの市民福祉部長交渉で『障害者の立場に立って考えていきたい。みなさんの要望に応えられるよう努力します。』の言葉をひきだし当面の間の母子寮跡の継続使用は実現できたものの認可施設建設にむけての動きは進展しません。
大阪府下でも行政が土地を提供し認可施設が次々と誕生してきた時代です。

会議は終わりの予定時間はありません。夜遅くまで続きました。
私たちも、『部長答弁の「努力します」』具体化を迫り市有地の提供を求め度重なる折衝もなかなか具体化せず時間ばかりが過ぎていきました。やっと動きがでてきたのは、1982年末12月28日に、1983年度中に『代替地を無償提供する』ことの市長決定でした。
認可施設建設の事前申請は9月でしたが、市長決定はなされたものの土地の明示はないまま大阪府に申請書類を提出しました。大阪府からは、民間同士の約束なら受け付はできないが相手が高槻市ならば、市役所担当責任者からの口頭説明で確認ができれば受け付けるといわれました。事前申請はすんだものの土地が決定しないことには建築基本構想は錬れても設計はできません。図面が決まりません。本申請もできません。

郡家新町48-2 地質調査 1984年7月
まだかまだか土地の決定を待つこと市長決定から1年、難産の末、土地が決定したのは本申請締め切り2週間前の1983年12月26日、この時も年末ぎりぎりでした。郡家新町の現わかくさ障害者作業所の敷地です。翌1月に社会福祉法人設立並びにわかくさ障害者作業所(知的障害者通所授産施設(30名)の建設補助金申請を行いました。
2025年12月29日
- わかくさの歴史・・・1981年 国際障害者年
1981年を『障害者の社会への全面(完全)参加と平等』をテーマに国際障害者年でした。国連は、障害者を締め出社会は弱くてもろい社会である。と指摘し障害者が特別な人間でなく、市民の一人として、生活していける条件を整備するよう世界に強く呼びかけました。
行政サイドにおいても『国際障害者年推進本部』が設置され、私たちの願いからすれば不十分ですが、啓発活動を中心に取り組まれました。マスコミにおいても障害者問題が大きく取り上げられ国民の中に一定の理解が広がりました。

民間サイドでは、全国113団体で国際障害者年日本推進協議会が結成され、都道府県単位では、国際障害者年推進連絡会が結成されました。障害者登山、ひまわり号などの取り組みや全面参加平等の施策実現にむけて行政交渉が活発に展開されました。

街づくり点検
以前のページでもふれましたが、高槻でも国際障害者年推進高槻連絡会が結成され事務局をわかくさにおきました。高槻の連絡会の呼びかけ人には、大学教授、医師会、歯科医師会、薬剤師会、老人クラブ、主婦連、障害者団体。幹事には、市内の関係団体、機関の殆どを網羅する構成でした。
市民会館大ホールで開催した市民集会では記念講演に黒田了一氏(元大阪府知事)をお招きしました。わかくさには、ボーイスカウトや、高槻民商マイホームセンターからの温かいご協力もありました。、また、高槻勤労者山岳会の方々と障害者登山(車椅子で高槻のポンポン山(本山時まで)や京都大文字山などに登りました)もはじまりました。

障害者登山 約100人が車椅子ごとの班に分かれて車椅子を押したり引っ張ったりして山に登りました。
初めての障害者登山の前日に、高槻市バスから、駅前から何人乗車の予定か?と電話がありました。お叱りではなく、臨時バスを手配するので人数がしりたいという話でした。100人も押しかけたら一般乗客は迷惑なこと。臨時のバスをお願いできることを初めてしりました。国際障害者年の年、『障害者の社会への全面(完全)参加と平等』をかかげ、わかくさが地域とより大きく、つよく結びついた時です。
この広がりが高槻市から『公園にするから母子寮跡から出ていけ!』と言われた時、『追い出さないでさないでよ!市長さん!』と訴え、『障害者の立場に立って考えていきたい。』の答弁を生み認可施設実現にむけた大きな一歩になりました。
2025年12月26日
- わかくさの歴史・・追い出さないでよ 市長さん
1978年やっと手にした母子寮跡での感動の開所式。その後、一年毎の賃貸契約更新で、わかくさは場所的には安定し仲間も増えつづけました。ところが、わずか3年足らずの1980年9月に来年度の契約更新できないと知らされました。私たちは、今の場所が公園計画にかかっておりいずれは移転する事は承知していても、すくなくとも障害者の立場に立って仕事をする担当課の責任者が、『公園にするからドケ。後の事は知らん』では納得できるものではありません。
母子寮跡を提供し、少ないとはいえ補助金を行政として補助しているのに『後のことは知らん!』では、あまりにも無責任です。
私たちは、母子寮跡にしがみつくのでなく、補助金の増額と喜んで移転できるようにと認可施設の建設についての援助を再三にわたり申し入れていました。

もっと広い場所で働きたい! の垂れ幕
3月末の契約期限切れが迫る2月13日。高槻市と交渉を持つことができました。場所は市民会館南のプレハブ建の会議室。
高槻市からは市民福祉部長他3名。わかくさ仲間の胸には『働く場をとらないで』『追い出さないで市長さん』とゼッケン。急な呼びかけにかかわらず次々と市民や団体がプラカードや団体旗を持って駆けつけてくれました。関西テレビのカメラが構えています。

緊張と興奮の交渉は、♪ぼくらはみんな 生きている 生きているから 歌うんだ♪と「手のひらを太陽に」の熱唱から始まります。
用意されてた答弁を部長が読み上げます。『3月末で出て行って欲しい。』『認可施設の事は考えていない』です。
テレビカメラがまわり、ライトが参加者の怒りと願いの熱さをぶつけます。
仲間が一人ひとり、そして家族がわかくさの大切さをのべ、障害者立場に立って下さい。と訴えが続きます。
再度、答弁にたった市民福祉部長さんも額に汗です。
そして、『障害者の立場に立って考えていきたい。みなさんの要望に応えられるよう努力します。』と答弁。テレビカメラが、今の言葉は間違いないか?と答弁の確認を部長に求めます。
行政の姿勢がかわった瞬間です。

放映されたテレビ画面
夜のニュースで『国際障害者年のこの年に、ある市では障害者を追い出す?・・・』と放映されました。テレビをみた府民から激励がわかくさによせられました。高槻市長にも要請の手紙をだしたことも添えられていました。
前略
わかくさ共同作業所の皆さん、お元気ですか。先日テレビのニュースで、皆さんが対市交渉をして頑張っておられるの知りました。そして、市当局の一方的なやり方に怒りを感ぜずにはおれませんでした。・・・・・・・私はこうして皆さんに突然お便りをするとともに、高槻市長にも要請の手紙をだしておきました。多くの府民と青年が皆さんの事を応援しています。
認可施設実現までには、まだまだですが、この日、この時、おおきな希望に繋がっていきました。
追記:当時の部長さん こっそりバザーの品物を提供して下さるなど立場を離れたら応援してもらいました。
2025年12月25日
- わかくさの歴史・・・国民平和大行進
国民平和大行進は、「地球上から核兵器を追放すること」を国民に呼びかけることを目的とし毎年続けられており、平和を願う人々がリレー形式で全国を行進し、その願いと思いを繋いでいます。

わかくさ福祉会の法人設立趣意書には、“戦争がもっとも多くの障害者をつくりだす”“平和であってこそ、障害者の全面参加と平等は実現しうる”と国連は訴えつづけています。私達、社会福祉法人わかくさ福祉会のめざす事業のすべては、平和が守られてこそ、実現可能となるものです。地域の人々と共に、平和を守り、人々の生活を限りなく豊かなものにする事業を、共同して創造するため、歩みつづけます。
毎年7月には高槻市役所から総持寺、茨木、摂津、吹田へむけて平和を呼びかける行進があります。わかくさの仲間達も総持寺まで参加しました。

2025年12月23日
- わかくさの歴史・・・カレンダー販売1万本達成。
無認可作業所に対する大阪府の補助金制度は、大きな励ましではあったが実態とかけ離れていた。大阪府の補助金は1978年に年間77万円でスタートした。
その後、1779年から1981年は年間200万円。1982年から1983年は年間300万円になったものの焼け石に水だった。
仲間も職員も増え規模が大きくなるに伴い毎年、約1,000万円を捻出しなければならなかった。バザー、署名募金、カレンダー販売、廃品回収、夏祭り、映画会など多様な事業によってわかくさの運営は守られていた。無認可時代10年間に市民の皆様から寄せて頂いた善意と激励の総額は約9000万円を超えている。
ゆえに、わかくさは市民との共同、共有の財産である。
わかくさニュース 1981年1月15日号 カレンダー販売 一万本達成とある
物売りではなく、わかくさの願いを伝え、心と心を結び合おう。がスローガン。
この時期は、選挙の投票依頼(票読み)みたいなものだった。
仲間も、家族も、ボランティアも思いうかぶすべての繋がりに声をかけていた。
仲間達は、市内の小、中学校を中心に1,700本達成。ボランティア達も昔の恩師や知人などに声をかけ、繋がりが繋がりをよんで東南アジアまで広がった年もあった。
一人で2,000本を達成した人は、いつも車の中は50本入りのカレンダーの箱が4~5箱積んで他府県まで持ち歩いていた。
昔の資料をみると見学者や取材に来たテレビの記者の方にも協力して頂いている。

カレンダー販売 ハチマキしめていざ出発
また、日曜日には、仲間、ボランティアは、リヤカーにカレンダーを載せて地域に販売(4日間)にいく。1日で196本売れた記録もあった。
行事やイベントがあると聞くと会場で訴えたり、デパートの入り口でも販売させて頂いたこともあった。
12月末、暮れが迫れば残りの在庫とにらめっこが始まる。あと何本、あと何本と在庫がなくなるまで職業別電話帳を広げて電話作戦。まさに選挙みたいなものだった。
こんな事もあった。
餅つきがあると聞いておじゃましたら、つき手が足らないからと言われて手伝った(手伝わされた)。ヘトヘトになってカレンダー販売の事はどこかいっていた。
2025年12月22日
- 柚子搾り器 試作品
わかくさ50周年記念詩づくりは、1月に2回目の座談会を予定している。
無認可時代の第2弾で母子寮跡の時代の方々を中心に呼びかけている。
日曜作業所、文化住宅時代に、『わかくさづくり』の基本構想が練られた。
母子寮跡時代に、わかくさの基礎、土台が作られた。
何十年も会っていない、この時代に基礎、土台づくりに青春をかけた仲間たちと再会できる時を心待ちにしつつ・・・・・本日は、歴史編はひと休み。
高知県は全国一の柚子の産地らしい。
高知県では、自宅で柚子をしぼりポン酢をつくり一年中使うそうだ。
我が家では、この季節になると柚子茶をつくっていたが、先日、高知県産の柚子を大量に頂いたのでポン酢をつくる事にした。
柚子搾り器・・・検索すると、いろんなものが販売されている。
安いものでも7~8千円もする。値段にびっくり
早く欲しいこともあって自作することにした。(早く手に入るものがあっても絶対買わないと思う。買わない。絶対作る…ケチだもの)

試作器だが一応役目ははたせた。改良のすべき点もわかってきた。
そのうち、改良したものを作ろう。
早速、炭火で焼いた魚にポン酢をかけて食べた。香りがいい。まろやかだ。
容器がペットボトルだったので傾けたら、ドバーかけすぎた。(酔っぱらていた?のではない)
あーもったいない。もったいない。
市販のポン酢はトゲがある。
柚子味噌もいい。ご飯がすすむ。
2025年12月19日
- わかくさの歴史・・廃品回収 より広く、強固なわかくさを支える基盤づくり
廃品回収を本格的に初めたのは1983年からです。当初は、これまでの知人等市内120軒余りです。府下の作業所をまねて始めたものの、市内全域に点在しており車3台で朝10時スタートしても夜の10時11時までかかりました。
それでも日曜だけで終わらず、翌日も仲間が退所後に車を動かしました。
台帳の整備、道順コース、わかりやすい近隣目印の地図、など効率良く動ける工夫や市内を南北にわけ隔月として訪問先範囲を集中しました。
古新聞の提供の呼びかけは、次々と、協力者が協力者を生み、市内南部地域で約180軒。北部地域で170軒まで広がりました。

廃品回収個人台帳 行く順番に整理し隔月に訪問しました。
これにより収益も月約7万円、年間80万円から90万円作りだす事業に発展しました。
この事業特徴は、収益以外の大切な意味があり成果を生み出しました。
廃品回収の事業は、『古新聞の提供でわかくさを応援する』という、もっとも手を繋ぎやすい入口だった事で支援の輪が一挙に広がりました。
そうして広がった市民に、毎回、訪問時にはニュースをとどけ対話し、署名の時期は用紙を預け。バザーの時は物品をお願いし、カレンダー購入を願いするなどができることで、それぞれの事業が一回りも二回りも大きくなりました。一束の新聞紙が市民一人ひとりと、わかくさを繋ぎ新施設づくりの土台になっていきました。

エピソード:わかくさに突然、やや強面の男性が数名で来られました。廃品回収を職業としておられる業者の組合の方々でした。『わしらの仕事を奪うな!』と抗議です。
当時、よく見かけた、軽トラで『古新聞・雑誌・ダンボールなどはございませんか?』と流しながら町内を回っている方々の団体です。みなさんの職域を荒らすつもりはない。障害者共同作業所は、全国でも、大阪府下でも同じことをしていると理解を求めました。が・・・・
2025年12月18日
- わかくさの歴史・・忘れてはいけない失敗の話・・始末書
わかくさの古い書類のなかに高槻市長あての『始末書』なるものが保管されていた。
昭和57(1982)年12月24日午前11時30分過ぎ、借用使用中の建物東側にある焼却場の残り火が近くの廃材に移り、廃材の炎で建物東側外壁をこがす不始末を起こしました。・・・・・深くお詫び申し上げます。

当日の様子
早出の職員(8:30)が水はけが悪く水浸しになる通路に段ボールをしき通路を確保しようとしたものを焼却場で焼却し火の消えた事を確認した。その後火の気はなかった。
11時30分過ぎ、焼却場及び、近くの廃材が燃えている事を発見し、消火活動、利用者避難、消防署への連絡をおこなった。人的な被害はなかった。
購入した焼却炉
今後の対策
①焼却場は取り壊し、焼却炉を購入する。
②新しい消火器を設置し、設置場所を示す表示板をつけ、職員全員で使用訓練をする。
③作業所内外を問わず、絶えず整理整頓を行い避難通路を確保し避難訓練を実施する。
④火元安全確認を強化するとともに、他の事故等を含む安全確保について定期的に点検する。
不始末を起こした記録だ。
当時の新聞に『障害者ヒヤリ・・・・ボヤ』と載った。
話を聞いて関係者も駆けつけてくれた。ボヤ程度で済んだ事に安堵した。
もうすぐ12月24日だ。忘れてはいけない失敗の話だ。その日も近い。
一瞬にしてすべてを失う危険は絶えずある。

母子寮跡 わかくさ共同作業所 作業風景
2025年12月16日
- わかくさの歴史 きょうされん国会請願署名3万筆
署名台帳B4版 持出禁止 誰が、いつ、誰に、何枚預けていつ回収したかの台帳

1977年共同作業所全国連絡会結成(16か所)されました。
きょうされんは、今日まで、1年も欠かすことなく、国に対して全国署名と交渉を行っています。
わかくさでは、1979年に5,638筆の署名。1980年に6,365筆。
国際障害者年の1981年には、29,724筆(募金額901,515円)ほぼ目標の3万筆を達成しました。
約1月間1日2時間の街頭署名活動をはじめ、募金袋も兼ねた封筒に署名用紙を3~5枚セットし、とにかく用紙を預けて後日、白紙でも用紙は必ず回収する。などを徹底しました。

メーデーの参加者に署名を訴えています
わかくさ内部関係者のこうした踏ん張りはもちろんですが、『国際障害者年』だった事も成功の大きな要因でした。
前年には、府下的に国際障害者年推進大阪連絡会が発足し、わかくさからも常任幹事に加わり、過去の障害者の集会では最高の参加者で府民集会を成功させました。
これに、呼応して、高槻でも国際障害者年推進高槻連絡会を発足し事務局をわかくさにおきました
連絡会の呼びかけ人には、大学教授、医師会、歯科医師会、薬剤師会、老人クラブ、主婦連、障害者団体。幹事には、市内の施設、障害児学級、保育所、障害者団体、保健所、養護学校など市内の関係団体、機関の殆どを網羅する構成でした。
市民会館大ホールで開催した市民集会も大成功しました。
この年ボーイスカウト40~50人の少年達よるわかくさの屋外清掃作業。また、高槻民商マイホームセンターによる無償の内装工事などもしていただきました。
国際障害者年の年、『障害者の社会への全面(完全)参加と平等』をかかげ、わかくさが地域とより大きく、つよく結びついた時期でした。
この年には、年末のカレンダー販売も約1万本達成しています。
国際障害者年を、わかくさの運動を広めるチャンスにするためのいくつかの作戦がありました。
その一つ、国際障害者年の一年前、『来年は国際障害者年です。わかくさバザーにご協力を!』のポスターを3,000枚発注。コート紙の上等なポスターです。
約1月かけて、市内全域にポスター張りめぐらしました。貼り付ける場所の殆どが電柱貼りでした。(今の時代では考えられませんが)
3000枚という数、半端でないポスター貼りを数人で行うのですから身体がついていきません。肩が痛く腕が上がらなくなって当分の間整骨院にお世話になりました。
わかくさのポスターがテレビで放映された事もあったと聞きました。
なんと、市民に美化活動で汚された電柱を清掃している映像だったそうです。遅すぎますがごめんなさい。
2025年12月15日
- わかくさの歴史・・・古い集合写真は?運動会だった。
古い集合写真がある。

時代はわかるのだが、何の集合写真か?さっぱりわからなかったのだが、やっと判明した。三島の郷の運動会に招待された時のものだ。
三島の郷が1979年10月に開所し、もちつき大会、運動会などの行事に参加させていただき交流も盛んだった。また、わかくさから、三島の郷へ仲間の仕事を回したりすることもあった。

証拠は顔ぶれと、服装が決めてだった。

但し、この時代、毎日いつでも、何処でも同じ服装の○○もいるのでこの人の服装は参考にはならなかった。
2025年12月13日
- わかくさの歴史・・・ボーイスカウトの皆さんと
母子寮跡時代、富田本照寺に拠点を置く日本ボーイスカウト第一団の方々との交流が始まりました。4~50名のボーイスカウトの少年たちがわかくさのまわりの草取りをしてくださったり、お昼ご飯にカレーご馳走になりました。1983年には本照寺敷地内で合同キャンプに招待されました。

仲間達にとっては、キャンプファヤーやテントで寝るなどの経験はめったにできない経験でした。

本照寺は1427年に創建。江戸時代には富田御坊として多くの人が集まった歴史ある寺院です。
ある年、ボーイスカウトの団長?K藤さんから本照寺で初詣の方々に建設募金訴えようと提案がありました。
ボーイスカウトの皆さんと、わかくさ関係者で募金箱をもって寒い大晦日の深夜、12時の開門と同時に本堂をめざす多くの参拝客に認可施設建設募金を訴えました。
たき火はあったものの寒かった事。甘酒で暖まった事は覚えています。
あの時のボーイスカウトの団員(少年達)は今は50歳を過ぎていると思います。お世話になりました。
2025年12月12日
- わかくさの歴史・・・ボランティアグループありんこ
ボランティアグループありんこを語らずして、わかくさの歴史は語れない。
その当時、ボランテアとは奉仕者といわれ、活動は奉仕活動と言われていた。
そんな、時代に『ありんこ』が結成された。
『ありんこ』の名前は、小さなアリでも力が集まれば大きな力を発揮するということからついた。
会則代2条(目的)では、
我々は、すべての人が人間として暮らせるコミニティー(共同体)を築くために、様々な問題を自分たちの問題としてとらえ、奉仕としてではなくお互いに助け合うことを当然の認識として、より人間らしいコミニティーづくりと自分自身向上及び会員同士の友好を目的とする。
すばらしい!今の時代でも通用する。誰が起草したのか?わかりません。
資料には残っているが、頭、記憶には残っていません。
障害者団体からの依頼に応える活動もほぼ毎月あった。
ありんこ独自の行事(ハイキング、忘年会、キャンプ)も懐かしい。

保津峡での初めてのキャンプは野宿のようなものだった。
今のようなアウトドア用品はまだない時代。
料理の火はすべて拾い集めた薪だ。ご飯は兵式はんごうで炊く。
テントは黄色の布地の三角屋根。
トイレは地面に穴を掘って囲いで目隠し。
夜中に川に浸かって水遊び。(投げ込まれたそうだ。・・投げ込んだのは私ではない。)
メンバーの多くは20歳前後の勤労青年や学生たちだった。
わかくさとの関係は、
1973年高槻肢体不自由児父母の会(ひまわり会)の当事者青年の会(ひまわり青年部)が結成され、障害を持った青年達との合宿、芋ほりや、クリスマス会などの行事を一緒に取り組んだ。
後に、この障害持った人達がわかくさの仲間になるのにあわせて、ありんこのメンバーもわかくさと関わるようになったが当初は中心メンバーではなかった。
文化住宅時代、街頭カンパ、バザー、会議などにも参加するようになり、いつの間にか作業所を自分のこととしてとらえるようになって、わかくさにとっぷりつかっていく。
ありんこの行事に参加するだけではつかみきれないものを求めて集まる。そして、わかくさを支える1本、1本の柱になっていった。
2025年12月11日
- わかくさの歴史・・日曜教室・日曜作業教室
日曜作業所は常設の作業所以前の日曜日ごとの作業所の事です。
今回取り上げる日曜教室は、毎日開所になってからも日曜教室・日曜作業所教室を開所しました。ゆえに年中無休の『わかくさ』でした。
当時のパンフには具体的に、日曜教室では、ゴミ袋を改良して竹ひごと紐をつけて凧をつくって公園であげたり、紙粘土で鬼の面づくり、ダンボールのトーテンポールつくり、習字、絵画、編み物、算数、音楽などボランティアが大活躍。平日とは違う取り組みをおこないました。日曜教室・日曜作業所教室
日々の取組とは別に、毎週日曜日に、もっと学びたい、もっと知りたい、つかみたい要求を引き出し可能性を見つけ出し、1つ1つ実現する場として日曜教室・作業教室があります。
日曜教室では、算数、国語、おえかき、裁縫など仲間集団、ボランテア集団が一緒になって、仲間の持っている可能性に挑戦し、今まで『あんたにはムリや』と言われ、何の取り組みも保障されなかった仲間に、一個人の人間の当然の要求として、また、より豊かに生きていくことをめざして取り組んでいます。
作業教室では、働くことの厳しさや喜びをまだ知らされていない仲間、日曜しか通えない仲間に、実際の仕事を通じてそのことが実感をつかめるよう取り組んでいます.

- 春には花見、秋には運動会、冬には餅つきなどの行事なども行いました。
仲間も職員もボランテアも盆・正月の閉所日以外は毎日、『わかくさ』とにかく集まりました。
ボランテアの存在なしでは『わかくさ』は語れません。
平日も学校や仕事終えて6時・7時ごろから9時・10時ごろまでが活動の時間です。
風呂なしのアパートに住んでいた人間にとっては終わりの時間は重大な問題でした。
銭湯には夜11時までに入る必要がありました。今日こそは風呂に入りたい!。目先ではあるが人間らしい要求だったのです。。
バザーの日の注意事項○前日は入浴して、無臭の状態でバザーの成功に協力しよう。には現実味があったようです。
2025年12月10日
- わかくさの歴史・・・働こう障害者も 働けるんだ 僕たちも
みんなで築きあげよう 障害者の働く場を
これは、共作連(きょうされん)のスローガンであり、わかくさのスローガンでもあった。
1977年発行のわかくさパンフ“すべての障害者に働く場を”には、
作業所づくりの3本の柱として以下の3点が記してある。
①障害の違いを乗り越えて、働きたいという要求を統一し実現させる場をつくっていくこと。

ハンガーのフックの組立
②どんなに重い障害を持った仲間でも、働くことの出来る場をつくっていくこと

せんたくバサミの袋いれ
③労働を通して成長、発達を保障する場をつくっていくこと
私たちのこの運動の大きな特徴は、作業所の主人公は、あくまでもそこで働く仲間たち自身であるということです。それは、わかくさ作業所を単に働くことができる入れ物づくりに終わらせるのでなく、仲間達一人一人の要求を尊重し、仲間の持っている障害を理解し,その障害に応じた働きかけを通じて、仲間たちの能力を最大限に生かし、さらに成長、発達を目指した取り組みを、あらゆる分野で進めていくことを重視するものです。・・・・・1977年12月6日発行
2025年12月9日
- わかくさの歴史・・働くなかでたくましく・・・そして楽しく
働きたいという願いは、人間の基本的要求であり、それは、単に生活のための賃金を得るということだけでなく、“働く”ことをを通して、仲間とのふれあい、社会とかかわり合いながら生きる喜びが、人間としての限りない発達が約束されているからです。

スカートハンガー ゴムキャップをはめています。
従来のようなつくられた入れ物(施設)ではなく、多くの人々に支えられ、障害者、青年みずからが、主人公として働け、障害の程度、種類が違っていても、お互いの可能性を認め合い、みがきあい高め合える厳しい、そして生き生きとした働く場、それが『わかくさ』なのです。

縫製の仕事も始まりました。
仕事に人を合わすのではなく、人に仕事を合わす

そして楽しく、みんなで琵琶湖をいきました。
他施設からお借りした、ワンボックスカーを連ねて琵琶湖に一泊レクにいきました。帰りに比叡山をドライブ。ところが坂道が登れなくなり降りてみんなで車を押して登りました。
2025年12月8日
- わかくさの歴史・・・わかくさバザー
バザーは、わかくさの自己資金づくりには貢献した最大の取組だった。
9月末から11月中旬まで約2か月間の物品集め、値段付けなどの準備をしました。
日曜日ごとに前日までに2度ビラを入れ、さらに、前日には宣伝カーで明日はよろしくと流し、当日は地域に仲間、父母、ボランティアが約30名リヤカーを引っ張りながら2か月間1軒1軒訪問しました。毎年約1000軒以上の家庭から物品の提供をいただきました。
売上も、最高時は380万円。運営、経営を支える大切なイベントでした。
新聞、テレビなどにも取り上げられ、高槻の秋の風物詩とも言われました。

日曜ごとの一軒一軒の品物集め お昼の休憩

1977年 第1回バザー 西武百貨店(1日) 40万円(文化住宅時代)
1978年 第2回バザー 駅前デパート(2日間) 190万円(以降母子寮跡時代)
1979年 第3回バザー グリーンプラザ1号館屋上(3日間) 300万円
1980年 第4回バザー グリーンプラザ1号館屋上(3日間) 350万円
1981年 第5回バザー グリーンプラザ1号館屋上(3日間) 350万円
1982年 第6回バザー グリーンプラザ1号館屋上(3日間) 380万円
1983年 第7回バザー グリーンプラザ1号館屋上(3日間) 380万円
1984年 第8回バザー グリーンプラザ1号館屋上(3日間) 348万円

毎年多くの人でにぎわいました。

粗大ゴミではありませんよ。すべて商品です。

目標20万の倍の40万円だった初めてのバザー(1977年 第1回バザー)ビラ
当時の運営マニュアルをみたら吹きだした。
○前日は入浴して、無臭の状態でバザーの成功に協力しよう。
○任務分担 :午前は顔の悪い班。午後は足の短い班。
ユーモアがあふれていた仲間たち、時代だった。この時代にはハラスメントの言葉はない。
2025年12月5日
- わかくさの歴史…給食(水曜日)が始まる。1980年

母子寮跡 作業所室内 前の壁には手作りの黒板(緑)
上には模造紙にグラフ カレンダー販売1万本突破をめざして
1本1本のカレンダー販売で実りある国際障害者年の幕開けをはかろう!
無認可時代、毎日弁当持ちの出勤だった。
弁当の持参できない人(特に職員)は近くの弁当屋(ほっかほっか弁当)から買ってきた。財布の中身次第で近くの食堂に食べに行く日もあった。食べ終わって中身が無い時もあったが当時は許された。
ほっかほっか弁当が誕生したばかりの時代で、コンビニはまだない。

給食と言っても、調理人がいるはずもなく、自分たちの食事を自分たちでつくる。(毎週水曜日)

どんな味でも、まずいという人はいなかった。きっといなかった。と思う。
カレーの日。おかわりができない事で爆発した仲間に困ったのはしっかり覚えている。
当時の職員は3名。すべて男性。
3名そろって飯をつくれそうな人ではない。
きっと、女性ボランティアか、お母さん方が手伝っていたのだろう。
ボランティアで栄養士の人がいた。150円以内でごはんを中心とした4種類(1か月分)の献立を頼まれたそうだ。仲間も参加できる条件もついていたようだ。
調理実習もかねて当番制で仲間の皆さんが給食を作ります。
写真右 大型シンク 松坂屋労働組合さんの寄贈です。
2025年12月4日
- わかくさの歴史・・・夏になったらテキヤさん
タコ焼き、綿菓子、かき氷、イカ焼き・・・・いろんな事をやりました。
毎年7月末から8月末までは、夏祭り(夜祭)のシーズンだ。
母子寮跡に移ってから、高槻祭り、富田団地や下田部団地などの地域自治会の夏の祭りに参加するようになった。
初めの頃は商売よりも、わかくさを市民に知ってもらう事に意義があったと思う。
販売商品も、仲間がつくった『洗濯ばさみ』が主力だった。
回を重ねるたびに、水飴、わらびもち、おでんなどの食べ物や自作の風車やデンデン太鼓とネタが増えた。
毎年、夏祭りが近づくと、その年の責任者を中心にアイデアをだす。
『ところてん』の店を出したことがある。目の間で『天突き』で押し出す。珍しがられたがさっぱり売れなかった。

水飴うり 手作りの風車はいかが
ある年から、松屋町(大阪市内おもちゃ問屋街)に、おもちゃを仕入に行くようになった。
半ズボンに、草履ばき、首にタオル、髭面、日焼けした肌。いつの間にはテキヤの兄ちゃんに変身していた。
言葉づかいも、『おっちゃん 今年のあたりは何や?』と聞いていた。
この頃からは、しっかり商売にも力が入った。

揃いのはっぴはボランティさんに生地と型紙を渡して縫ってもらいました。
商売のコツもわかってきた。客になったつもりで考えろ。だった。
かき氷屋さん。同じ値段でも行列ができる店とできない店がある。
大方の客人は、行列がある店に並ぶ。
店主がいった。行列を切らしたらおしまい。絶えず数人の行列ができているように作るスピード調整するそうだ。
金魚すくいは、数匹の出目金などの目立つものを入れておくと、客はそれを狙うからすぐ破れる。
また、客が少ない時は厚手の紙を渡し、増えてきたら薄手の紙を渡して客をさばく。(やった事はありません。)
こんな話も聞いた。虫も人間も明るい所に寄ってくるだって
明るくしすぎて電球でテント焦がしたこともありました。失敗、失敗。
2025年12月2日
- 記念誌づくり・・この人は誰?昔の人へのインタビューが始まりました。
昔むかし『あの人は今』というテレビ番組があった。
先日、わかくさ発足時(1976~)作業所作り運動の中心メンバーに集まっていただいた。

何十年もお会いしていない人も駆けつけてくれました。
あの人は今ではなく『この人は誰?』だった。

向って左の女性は記念誌作成担当施設長ゆえに(やや)若い。他は敬老メンバー
中心メンバー(ボランティア)は7~8人(むかでグループと呼んだ。)半数以上の方が亡くなられた。ごく、限られた当時を語れる方々だ。50年は長い。
2025年12月1日
- わかくさの歴史・・俺も生きたい

作業所紹介 パンフ

パンフより転記『おれのわかくさ)
おれのわかくさ
自分の障害を洗たくバサミとカギの作業ぶつけ、その中で働くきびしさを知り、金の価値を知り、生きるよろこびを知る事ができました。
働くなかでオレも人間なんだ。オレと一緒に生きてくれとさけぶ事ができます。
それを真正面から受けとめ一緒に考え答えてくれる仲間がいるのです。
自分の一生をかけてオレにぶつかってくる人間。
そんな人間の中で、自分の人生をみつめなおし、みんなでもえあがるものを、たしかめ合うあうことができる『オレの作業所』なのです。
みんなが力を合わせて、毎日一人一人が肩をたたき合いながら『君も生きているかい!』聞くことのできる『オレのわかくさ』なのです。
それは、人間が働く事によってえる生きる力そのものなのです。ただ障害者のためだけではなく、人間の生きる姿をもとめ合い、たしかめ合うことができる『オレのわかくさ』なのです。 鳥本二三男

センタクバサミの組立作業
♪♪ かがやくなかま ♪♪
キラキラ かがやく みんなの顔
俺の まわりは 働く仲間
働くことの きびしさを
生きることの 尊さを
からだいっぱい 受けとめながら
生きる力を もとめあう
キラキラ かがやく 大きな仲間
2025年11月28日
- わかくさの歴史・・もっとつかみたい働くよろこびを(母子寮跡時代)
1978年6月に広い場所に移転後、毎年仲間が増え続けました。

センタクバサミの組立作業
当時のパンフレットには

わかくさ共同作業所はこんなことをしています
※仕事 スカートハンガーなどの下請け作業と、
自主製品としてセンタクバサミの仕事をしてい
ます。
※学習 毎週木曜日の午後や日曜日の日曜教室に
『話し合いの時間』『デパート学習』『版画』
『スポーツ』・など、仲間 の要求に合わせて
計画、実施されています。
※行事 夏の一泊レクレーシュン、餅つき、
ソフトボール大会など、話し合いで、みんなが
楽しく参加できる行事が計画されています。
月曜日から土曜日は通常の開所日。
日曜日は日曜教室の開所。お盆休みと正月休み以外はほぼ毎日開所していました。

スカートハンガーの組立作業

スカートハンガーの組立作業

一泊研修会 高槻市高槻市森林観光センター 1979年7月
何を研修したか?まったく覚えていません。夜遅くまで酒を酌み交わした記憶はあるのですが!!
2025年11月25日
- わかくさの歴史・・・総会・・議案書づくり・・・ある年には
無認可時代 毎年6月には作業所づくりをすすめる会の総会を行った。
議案書の目次をみると、
1、はじめに
①社会保障社会福祉をめぐる情勢
②わかくさをめぐる情勢

2、わかくさ1年の動き
①中身づくりの実践
②わかくさ作りの運動
③共同作業所の運営
3、会計報告
4、会計監査
5、運動の基調
6、実践の方針
7、運動の方針
8、運営の方針
9、予算。となっていた。
B5版にすると約60ページ。ワープロもパソコンもない時代だ。すべてが手書き。
議案書づくりは大変な仕事だった。まず、目次のテーマごとに原案を書く人が決まる。
原案ができたら(なかなか書けない)持ち寄って修正を加える。
次に、人が読むことに耐えうる文字を書ける人が清書する。
そして、印刷、丁合、ホッチキス止めで完成。
約1ヶ月かけての議案書づくりは、毎回決まって当日ぎりぎりだった。

第5回わかくさ総会 1981年6月21日(会場:わかくさ(母子寮跡))
ある年の議案書は前日の夜にやっと完成した。
完成した時の安堵感と達成感。その夜はお酒を飲んで爆睡。
翌日、わかくさの中心の者は寝坊して全員が総会に遅刻した。来賓の高槻市社会福祉協議会の会長さんがカギの開かない会館入口におられた。
高槻市助役も歴任された会長さんには、その後もお叱りも受けたが、高槻市が横を向いていた時でも、大きな支援、応援を頂いた。感謝です。
2025年11月24日
- 私を捨てないでね
朝夕は暖房が欲しい季節だ。
エアコンや石油ストーブと違い薪ストーブの温かさは格別だ。
炎は心を癒し、身体の芯まで暖かくなる。
テントの中で使用するキャンプ用の薪ストーブも人気だ。
オークションで中古を探してみたが送料を含めると安いものではない。
キャンプ用の商品を参考に廃材(鉄板)を集めて自作してみた。使い始めて4シーズンめになる。

やかんの中は焼酎お湯割り用 日の出を待つ生野高原の朝
2025年11月22日。火入れ。燃やす薪も廃材だ。
廃材で作った薪ストーブで廃材を燃やす。
人間も物も同じ。使い方、使われ方次第で役に立つ。
私を捨てないで。役に立つこともありますからとつぶやいた。(誰に?)
2025年11月21日
- 思いだせなくてごめんなさい 『高校生の手作りコンサート』
50周年記念詩づくり。来週には創設期の関係者への取材がある。
当初のメンバーの半数以上の方がお亡くなりなっている。
遠方の方、音信不通の人もいるので呼び掛けられる人数も限られる。
取材の趣旨を伝えると、そろって第一声は、『おぼえているかなー!?』だ。
思い出してもらう手助けに簡単な資料をお送りしたのだが・・・はて結果は?
高校生の手作りコンサート 『みんなで広げよう わかくさの輪コンサート』
じつは、私も同様だ。
手元の古い資料をみて明らかに私が書いた文章だが・・・・記憶にはない。
『高校生の手作りコンサート』この時の写真に私も写っていたのだが・・・・記憶がもどらない。50年はながーい。
年をとると、昨日の事は忘れても昔のことは覚えているというが、どちらもあぶない。
かすかに思いだすヒトコマ、1ページが、きっと、きっと、昔の仲間が集えば、記憶が繋がるはずだと望みを持ち続けている。きっとボケ防止になるはずだ。

高校生の手作りコンサート わかくさ横の広場
この人たち(高校生)も今では50歳代ですね。ありがとうございました。
でも、でも、ごめんなさい。この日こと。思いだせないのです。ごめんなさい。
2025年11月19日
- わかくさの歴史・・・母子寮跡に移転して
母子寮跡に移ってからの取り組みは規模も大きく質的にも違ったものでした。
地域には『知って下さい』から『わかって下さい。一緒に作って下さい』と一歩前に出た取組でした。

母子寮跡時代 作業の中心となったスカートハンガー
手前のおばあさんは、『家にいても暇だから私も手伝う』と、こられたご近所の方
- 仲間が増える。仕事も増える。
仲間3名ではじまった文化住宅での準常設時代
母子寮跡の広い場所に移転後、たちまち在宅から、養護学校(支援学校)からと仲間(通所者)が集まりました。近隣他市にまだ作業所がない時代、茨木市、島本町、枚方市からも通所。移転2年後には20名を超える仲間たち。最終年1984年には40名になりました。
新たな仕事づくりも課題になり、洗濯バサミに加え、自転車の鍵の組立、やスッテプル、ハンドバックの台紙折りなどにも挑戦しました。スカートハンガーの組立作業は認可後も続きました。

- はじての公的助成金の獲得
母子寮跡に移転したこの年(1978年)は、公的な助成金(大阪府簡易心身障害者通所授産事業助成金)が初めて制度化された年です。
これにもひと波乱がありました。
大阪障害者作業所連絡会を中心に大阪府に制度確立を要望し大阪府は1978年度当初予算に6か所の助成金を予算化しました。しかし、わかくさは含まれておらず高槻市はわかくさに助成する意はないという態度でした。
市町村助成のため窓口は市町村です。申請締切2日前にそのことを知り高槻市と緊急交渉の結果12月補正で予算がつきました。
当時の助成額は年間77万円とわずかですが、行政の扉が、また一つ開いたことの喜びとともにやってきた事が確信となりました。
- 運動も飛躍的に拡大
第2回わかくさバザーは、駅前デパートで2日間開催。2か月前から準備をしました。
日曜日ごとに前日までに2度ビラを入れた地域に仲間、父母、ボランティアが約30名リヤカーを引っ張りながら2か月間1軒1軒訪問しました。
約1000軒の家庭から物品の提供をいただき売り上げも目標の100万の2倍近い190万円でした。

第2回わかくさバザー 駅前デパート 1978年
年末のカレンダー販売も前年の2.5倍5000部を売りつくしました。
高槻祭り、富田団地まつりなどへの参加もこの年から始まりました。
それまで運動の外にいた利用者の父母も、高槻まつりで、おでんの販売する。バザーの地域回り、値付けなど奮闘。どっしりと家族もわかくさづくりの主体になってきました。

写真は 1981年 仲間と職員
一粒のからし種が確実な発芽し、より大きな木と成長し始めた時期だった。。
2025年11月17日
- 涙はこころの肥やしだ。

最近、わかくさ50周年史の出版にむけて半世紀前の資料を読み返しながら“つぶやいて”きた。
昔むかしの資料を開く。手書きの文字、書きぶりで誰かがわかる。
熱き時代、誰もの目が輝いていた。懐かしさもあり。◎◎◎◎もある。
最近、少しへんなんです。心が
晩酌をチビリちびり。昔の映像が浮かんできて、涙が止まらない。
へんなんです。自分でもわかるんです。おかしいのです。
いろんな事があった。有りすぎた。
でも、涙をこらえるのはやめよう。
涙は心の汗だとういう言葉がある。汗だけではない。こころの肥やしだ。
思えば、何度もなんども涙をながし、歩き続けた50年だった。
また、次の一歩に向かってを歩きます。涙をながしながら

わかくさの歴史編・つぶやきは、入口に入ったばかり。まだまだ続く。
○1980年ごろ わかくさの歌も生まれた。
♪♪ かがやくなかま ♪♪
キラキラ 輝く みんなの顔
おれの まわりは 働くなかま
働くことの きびしさを
生きることの 尊さを
からだいっぱい うけとめながら
生きる力を もとめあう
きらきら輝く 大きな仲間
2025年11月13日
- わかくさの歴史・・・1978年6月11日 わかくさ作業所開所式(母子寮跡)
母子寮跡使用の市長決裁は1978年5月20日でした。内部改造、トイレの新設、スロープ設置など作業所として使える様に改修工事。
元々、母子寮だったので廊下の両面に居室が並び、居室の中に押入れがあった。仲間、親、ボランテァ総出でバールや掛矢(大きな木製ハンマー)やツルハシで壁や押入れを撤去。仕上げは、親でもあった工務店にお願いした。
そして、迎えた喜びの開所式 時は1978年6月11日午後1時。

母子寮跡獲得にいたるまでは、20代後半から30代前半の若者が中心でムカデグループと称していた。その周囲に、ボランティアグループありんこの20歳前後若者がいた。
今から思えば、無謀な若者が、群れが市役所、市長を相手に事をおこすなんて!
わかくさニュース19号から 1978年7月2日発行(6月11日の開所式報告と決意)
1978年6月11日 わかくさ作業所開所式
この日こそ私たちが運動を始めて2年あまり、まさに悲願ともいえる運動上もっとも心躍る記念すべき日だったのです。
2月6日、市長交渉において、思いがけず要求が入れられ、改めて、自分たちが市民の皆様に支えられ、この町に築いてきたものの確かな成長を、涙ながらに確認し、さらに獲得できたものの上に、いかなる飛躍的な質を築きこめるか胸を躍らせました。
どしゃぶりの雨の中にもかかわらず、駆けつけてくれた人は約70名。
参加者の顔は、まさに、これからの作業所の成長を願い、支えようと決意する意気込みに満ちていました。
働く仲間は作業所で働くことの素晴らしさ、楽しさを泣き泣き訴え,お父ちゃん達は、子供の生きようとする力に動かされ、自分もあらたに子供と共に生きようとする喜びを語ってくれました。
ボランティアにとってこの時ほどこの運動にかかわってきたことの幸せを、率直に心のひだまで感じた事はありませんでした。
ボランティアは障害を持つ、働く仲間に人間の根底において支えられている事の喜びを実感し、働く仲間の一つ一つの言葉が、己の事として心にしみ通り、ゆり動かしました。それは働くなかまにとっても同様のものであり、障害者、健常者の違いがある事さえ忘れ、共に支え合って生きてゆく事の素晴らしさを実感することができました。
この人間関係の新たな質こそ、わかくさが労働を通し、活動を通し、築きあげた最も大きな収穫でした。
しかし、この運動は、高槻市全体にとっては、芽をふいた一粒のからし種でしかなく、この確実な発芽が、より大きな木と成長し、鳥が群がるまでにはまだまだ困難な月日が来ると思いますが、市民の皆様の支えがあり、この豊かな共感関係のある限り、確実な運動の成長が保障されるものと確信しています。
母子寮跡 元は陸軍工兵隊の建物:現在は城跡公園(城内町)
この時代、わかくさと同じくして全国各地で作業所づくり運動の芽がふき始めた。
1977年8月には共同作業所全国連絡会(現在のきょうされん)が16か所で結成された。
翌1978年6月に第1回全国集会が東京で開催された。
大阪でも1977年9月に大阪障害者作業所連絡会(現在のきょうされん大阪支部)が6か所で結成され大阪府に公的な助成制度の確立を訴えた。
吹田市、岸和田市は先進的に行政の支援があったが、高槻市、東大阪市、大阪市は全く無縁で見通しすらなかった。
岸和田市の行政の支援のもとで作業所づくり始まった新聞記事を読んだお母さんが噛みついた。わかくさは無謀だ。無茶だ。行政の支援がないのに始めるなんて。と
ある人が言い放った言葉がある。さつき(吹田市)は、行政が作った。
岸和田は職員が作った。ひびき(東大阪)は、親が作った。
わかくさはボランティアが作った。と
母子寮跡に移転して親も群れに加わった。大きな節ができた。
障害を持った仲間も増え続けた。
若者たちが、学校や職場ではつかめない人生を、生き方を求めて次々と増えてきた。
障害があろうがなかろうが
君の行く道は 果てしなく遠い
だのに何故 歯を食いしばり
君は行くのか そんなにしてまで ・・・・と、こころのなかで
次の“わかくさ”づくりが始まった。
2025年11月12日
- わかくさの歴史・・母子寮跡を勝ち取った戦い
勝ち取った戦いと表現はキツイがまさに実感でした。
日曜作業所を始めた1976年、公的な場所を求めた請願署名(1万2千筆)。高槻市議会で採択されました。請願の採択はあったものの、高槻市の壁、扉を開くには10回を超える交渉を行いました。

作業所の開設場所を求める請願書
高槻市交渉1回目は1976年7月から始まり、その後9月、11月。翌1977年1月には助役交渉へと続きました。
福祉部との交渉では『わかくさの実績が無い。』『他団体と共同で受け皿をつくれば考える。』ある時は『わかくさ作業所作りを進める会の解消を条件』など実績を認めず、絶対にのめない条件を出してくるなど先のみえないまま月日が過ぎます。
しかし諦めることはできません。助役交渉でも、わかくさの団体としての中身が不明確。貸せる土地があれば売ってでも赤字の穴埋めにしたい。などと一歩の前進もありませんでした。
大きな前進のきっかけになったのは、文化住宅に、高槻市長の訪問(1977年4月)を実現した時の涙の訴えからでした。訴えに対し市長の『なんとか応えたい』の(もらした)一言でした。
しかしながら、その後の福祉部との交渉では、進展するどころか母子寮跡は撤去する予定だ。とうい発言までとびだしました。

臨時ニュース(緊急号) 昭和52年9月22日発行
8回目(1978年2月)は市長交渉に臨みました。見学の時の約束(なんとか応えたい)を守って欲しいと直接交渉。この交渉で、市長より母子寮跡使用認める回答引き出しました。
市長からは以下の条件が示されました。
1)議案書の一部削除
2)諸設備などの権利を主張しない
3)同敷地内の、つきのき学園、療育園の移転時の立ち退き
検討の結果借りることに合意したのですが具体的な詰めの段階に入って、福祉部長名で13項目にも及ぶ付帯条件が出されてきました。
付帯条件の中で特に難航したのは、日祝使用不可。平日も5時までという使用日時制限でした。
これは、わかくさの運動がなくなることにつながりかねないだけに絶対にゆずる事ができないものでした。
最終的には機械警備を設置するということで解決し5月20日市長決裁がおり、念願の母子寮跡を獲得する事が出来たのです。
1978年6月11日 わかくさ作業所開所式。
この日こそ私たちが運動を始めて2年あまり、まさに悲願ともいえる運動上もっとも心躍る記念すべき日だったのです。
2025年11月10日
- わかくさ芽生え その3 文化住宅時代 1977年
1977年5月9日から仲間3名で毎日作業所が始まる。場所は城西町の文化住宅・宮崎荘102号室

日曜日には部屋に入りきれないので外でも作業をしました。
プレハブ建設をめざし、仮設事務所として確保したところだ。6畳2間、家賃2万5千円。
それまでのジプシー生活から脱却。みんなが集まれる場所の確保は運動の発展に大きな意味があった。
日曜作業所時代は、関係者が会議をする場所もなく、メンバーの個人宅や近くの喫茶店だった。
場所が定まった事で、マスコミや大阪府の厚生係長の訪問もあった。
学生や仕事がえりの青年たち。ボランティが日常的集うようになった。
目標のプレハブ建設は頓挫したが、仲間が毎日通える場所が実現し、安定した職種、せんたくバサミの組立作業(ゆたか福祉会の協力による)も軌道にのってきた。
しかし、定まった販売先はなく、せんたくバサミ(商品)の在庫が溜まりにたまる。

作業テーブルは粗大ごみの食卓の脚を短くしました。
せんたくバサミ販売を通じてわかくさを広げる方法を考える。
リヤカーに積んでご近所めぐりやイベント会場などで出帳販売から始めた。
知り合いの商店から粗品用に使ってあげるなど嬉しい申し出も出もあった。
見知らぬ人が、これなら協力できると、みかん箱いっぱい持ち帰り知人に広げて頂いたこともあった。。
この年ではないが、富田団地の方が夏祭りで売りませんか?お誘いがあった。
祭りに、せんたくバサミは不似合と思ったが、その方が前行く人に声を掛け売り切った。(やや押し売りだった。)
7月には、初めての職員採用。(当時は専従指導員と言っていた。)
ひと月5万円の給与財源は協力者からの借り入れ(債権)で100万円を集めた。

せんたくバサミ 商品チラシ 市民からの借入(債権)
初めてのバザーもこの年から始まった。(西武百貨店 40万円)。カレンダ-販売もこの年からだった。(2,050本)(おおよそ1本あたり300円の利益)
3名の仲間が、4名、5名と増えてきた。次年度の入所希望の相談もあった。
この場所は、仮の場所である。もっと広い場所が欲しい。高槻市に公的な場所を求め続けた。毎日ように夕方から事務局、ボランテァが夜遅くまで話しあった。
2025年11月5日
- 今夜はこれで・・・・ ダバダ
職場で、またコロナがぽつぽつ出始めた。
仲間が休めば収入がなくなる。自立支援法:日割り制度は困ったもんだ。
人手不足の中、職員が休めば現場に穴が開く。
契約制度は福祉現場の働く魅力を奪った。福祉人材不足の真の原因だ。
もちろん、世間並みの給与が支払えない制度設計、公定価格の低額問題もある。
コロナには、わたしは、たばこで肺を毎日鍛えにきたえ、体内を毎日消毒しているから今日まで無縁だ。まわりからは、病院にも行かず調べてないだけ。また、バカなことばっかり言って。と言われているが・・・・

高知県の名酒らしい 栗焼酎 ダバダ火振
栗で焼酎をつくるなんておもしろい。
高知県:県民性と検索すると、「酒を酌み交わせば誰とでもすぐ親しくなれる」「とにかく心が温かくて、誰にでも親切」といった特徴。とあった。高知県は酒なしでは語れない。
嬉しい頂きものだ。今夜はこれで口から体内消毒。コロナにまけないように
追記 11/7 飲酒後の感想です。
飲みたいだけの焼酎は濃いめの水割りで飲んでいるが、
ダバダはストレートが合う。香りもいい。なめるようにチビチビ。これはいい。
2025年11月5日
- わかくさの芽生え その2 日曜作業所時代から文化住宅(準常設)へ
1971年5月9日:ささやかながら、その実現への一歩をふみ出した日。
毎週日曜日ごとの作業所がこの日から始まった。
わかくさの命名もこの時期だった。『そこに来れば働くことができ、語り合い、楽しめる場』として在宅の仲間を誘った。
場所と仕事の確保は大きな課題だった。市民の好意で、建替え前の住宅を3か月間お借りすること出来たが、その後は定まった場所はなく、事務局は1回、1回の場所探しに(自治会の公民館や共同保育所など)に追われていた。直前まで場所が定まらない事もあった。

場所を転々としながら続けた日曜作業所 八幡町公民館
仕事の確保では、仕事は市内の弱電メーカーが内職の仕事提供してくれた。(電気のコード折を4つ折りしてビニタイで止める)。

初めての仕事です。電気のコード折の仕事
簡易な作業もあったが、障害がなくとも熟練がいるような不向きな内容の仕事もあった。また、日によっては預かった量を仕上げるのが必死だった事もあった。様々な問題をかかえながらも日曜日ごとではあるが、集える場ができたことで支援の輪も少しずつだが広がってきた。
すすめる会の目標は毎日働くことができる作業所であり、高槻市議会に対し『作業所の開設場所を求める請願署名』運動に初めて取り組み12000名もの署名数が集まり、市議会で採択された。
しかし、請願は採択されたが高槻市との交渉はたやすいものではなかった。実績が無いから始まり高槻市財政は厳しいなどと約2年間続く。
この時期、市民から土地の提供の申出がありプレハブを建設する計画を進め街頭でのカンパ活動など建設資金づくり(目標200万円)も始まった。
計画を進めるために1977年2月に仮設事務所として文化住宅確保。
初めて朝日、毎日、読売、などの新聞に取り上げられた。
新聞(読売)は下記の内容だった。
- 身障者工場 建設にメド 高槻 会員は80人に
障害者自身の手で仲間が働ける場を作ろうと、高槻市の障害者とボランティア達の青年で結成している『作業所づくりをすすめる会』の熱意が実り・・・・作業所を建設するメドがついいた。すでに土地を提供したいという温かい申し出もあり・・・・・・カンパで建設資金の積み立てに励んでいる。国鉄高槻駅前で車椅子で訴えた結果10日間で32万円集まった。・・・今年中にはクワ入れをして見せるとみんなの夢は大きく膨らんでいる。1977年4月15日
建設図面や建築費の試算などの検討を始めていたが、突然予期せぬ一報が届く。
土地を貸すことが困難になったというお断りだった。
喜んでいた期間は短すぎた。
しかし、落胆した期間は不思議にも短く、プレハブ建設がだめなら、この場所、初めて手にした城『宮崎荘』で毎日の作業所を開設する事になった。

文化住宅 宮崎荘 城西町 初めて電話が付く 1977年3月
仲間3名だけの毎日通える、働く場がこの場所で始まった。(準常設と呼んだ。)
1977年、日曜作業所が正式に始まった同じ日の一年後。 時は1977年5月9日
2025年11月3日
- 『わかくさ』の芽生え 一歩をふみ出した日・・1976年5月9日
もうすぐ、わかくさが高槻で芽生えて半世紀になる。
今日は、文化の日だ。終戦の翌年(1946年)日本国憲法が公布されたことを記念して、1948年に国民の祝日として制定されたそうだ。
わかくさもいくつかの記念となる日がある。
1975年(昭和50年)全障研埼玉大会が開催され養護学校(支援学校)を卒業した障害をもった青年達の働く場づくり運動が報告された。
全障研高槻サークルの例会で高槻でも卒業後の進路は全く保障されていない実態から作業所づくりの必要性が確認され、作業所づくりに向けて世話人会を発足した。
第1回準備会を1976年3月7日に開催、メンバーは高槻サークルや施設職員が中心で20歳代から30歳代前半の若者が多かった。
全国の作業所づくりの経験に学び①どんなに障害が重くとも働ける場。②障害の種別を乗り越えて共に働ける場。③働く仲間が主人公の場。をスローガンに掲げた。
1976年4月11日はじめての日曜作業所(野見神社)。
場所もない。補助金もない。行政の応援も制度もない中でのスタートだった。

野見神社(野見町)初めての日曜作業所
その後、5月9日『作業所づくりをすすめる会』を発足。
また、この日5月9日から日曜日ごとの作業所が正式に歩み始めた。
この時代、障害者運動だけでなく市民運動そのものが、行政に陳情、お願いするスタイルだった。行政責任を追及しつつも出来るまで待つのではなく自らがゼロから作る事を市民共同の事業として始めたのだ。『必要なものは待つのではなく自ら作る』『市民との共同の事業として』に大きな意味があった。これは、のちに結成される共同作業所全国連絡会(きょうされん)作業所運動の特徴でもある。
当時の資料によると、『働きたいという願いは、人間の基本的要求であり、それは、単に生活のための賃金を得るということだけでなく、労働を通して、仲間とのふれあい、語らいがあり、そこに、人間としての限りない発達が約束されているからです。』
ささやかながら、その実現への一歩をふみ出した日。 時、5月9日とある。

ひよこ共同保育所(京口町)この場所から日曜作業所が正式スタート
2025年11月2日
- あきらめていたのですが
寒さを感じる日々。台所仕事もお湯がほしくなった。
数日前、数か月ぶりにお湯を出そうとしたが給湯器のリモコンが点灯しない。
リモコンの表示の問題ならお湯は出るはず。蛇口からは水だった。
リモコンの接触不良かと取り外してみたが・・・・・・
ちょうど10年だ。
業者を呼んだら、おそらく修理をしようともせず交換を進めるだろう。
2週間ほど前は、電子レンジが突然壊れた。又また続く出費。
年を重ねるとともに壊れるのは、機械も人間も同じかとあきらめていたら「治せないの?」と素朴な質問がきた。
昔むかし「靴の底が離れたので靴がないと言ったら、次の日には接着剤で補修されていた。靴を買って欲しいと言ったつもりだったのに!」とお叱りを受けた事があった。
靴底を接着剤で補修していたら近所の人がのぞきにきた。そんな事が出来るのなら、私の靴も修理して欲しいと持ってきた。
まだ新しく気に入っている靴だそうだ。修理した。
ところが外出先ではがれて大変なめにあったそうだ。
それでも、懲りずにまた修理を依頼された。また修理した。
その後の結果は聞いていない。
話はもどる。
壊れた給湯器。たぶん無理と思いつつ、梯子にのぼり電源コンセントを抜く。

テスターで電気がきているか?少し時間をおいて再度差し込む。
室内でリモコンをさわる。エー!ビックリ!!点灯した。蛇口からはお湯がでた。
あきらめていたのですが。
2025年10月31日
- 過去のつぶやきページから
わかくさは来年50周年を迎えます。半世紀をまとめた記念誌作成にとりかりました。これまでの歴史を語ってもらう人への取材もはじまります。いまなつかしく昔の資料を広げながら当時を思い出しつつ・・・
以下は過去のページからです
2009年12月11日- 熱かった時代・・・・・確かにあったあの日
「わかくさの歴史を話して欲しい」という依頼が1ケ月ほど前にあった。
気楽に引き受けたがその日が迫ってきて慌てている。
本棚の奥のおくから昔の資料を取り出した。

文化住宅時代(1977年) 高槻市長に要望書を渡す(右奥 西島市長)
30数年前の若かりし頃を思い出し懐かしい時間を楽しんでいる。
1976年、日曜日だけの作業所から「わかくさ」は始まった。
翌年、ひと月2万5千円の文化住宅を借りる。
公的なお金は全くなく、家賃は街頭で通行人にカンパを訴えた。
7万5千円だった職員給与の財源は、市民からの1口1万円の債権(借入金)の100万円だった。
市役所に「公的な助成制度と場所の提供を求めて」ハチマキを締めて何度も交渉した。
1978年、やっと手にした高槻市母子寮跡での喜びの開所式。
無認可時代の「わかくさ」は、多くのボランティアに支えられた。
同世代の、若者が毎日、仕事がえりや、学校がえりに集い夜遅くまで活動した。
障がいをもった仲間たち・・・・利用者ではなく本当に仲間だった。
カレンダー1万本販売。署名3万筆。3日間連続バザー380万円。をあたりまえように達成。
1985年、社会福祉法人取得、認可施設が実現した。
あの頃、集っていた人は誰もが熱かった。
いまでは、皆、とっくに人生の折り返しを過ぎている。
当時を語る人も、語れる人も周りには少なくなった。
みんな元気でやってるかい?
知らずしらず、あの時代を語り合いたいと思う歳になっていた。
- 熱かった時代・・・・・確かにあったあの日
2025年10月28日
- もう冬ですか?
10月なかばまで暑さが続き秋を感じる時もなく寒い日々。
エアコンは休む暇もなく冷房が終わればすぐ暖房。
地球がおかしい。日本の四季は何処に行ったのだ。
いくらぼやいても気候には勝てない。

ぼやいていたら、『今日はこれで美味しいビールでも』の言葉を添えてうれしい頂き物が届いた。
おいしそう。丹波篠山産黒枝豆だ。もう頭と口はビールになってきた。
丹波篠山の黒豆は10月初めが解禁日。
篠山市内は街道沿いに黒豆販売のテントが並ぶ。
道路は大渋滞。それでも、黒豆を求めて多くの人篠山に集まる。
秋を黒豆が運んでくれた。
そして、もう一つ。これが秋を運んでくれた。

数年前に自作した焼き栗機。
鍋をこんろにかけてくりくり(栗、栗)回す。焼き栗ができた。
秋ですね。寒いけど。
2025年10月22日
- わかくさ 昔ばなし 映画会
無認可時代から今日まで何度も映画会やコンサートなどのイベントを取り組んだ。
映画会は、きょうされんが制作した『ふるさとをください』『どんぐりの家』「星に語りて~Starry Sky~」などだけでなく、無認可時代から取組(行事)のひとつだった。
大規模に取り組んだ映画会は1982年の『ぼくらの学校』だった。この映画は、1981年の国際障害者年を記念した制作された。京都府の与謝の海養護学校が舞台で学校の設立の意義と障害児教育実践の教訓を多くの人々に知ってもらう目的の映画だ。
同時上映は『母さんは歌ったよ』だった。
6月13日に開催。大阪映画センターが上映とポスターヤビラの宣伝物を作成。
会場は市民会館大ホール。大きな会場なので片手間では取り組めない。作戦がいる。
当時、山田洋次監督の映画『同胞』(はらから)のモデルになった『統一劇場』という劇団に惚れ込み、高槻で公演を何回も成功させていた中心人物のIさんがいた。
成功させる秘訣をうかがった。
①絶えずチケットを小袋にいれて持ち歩く事。②とにかく、チケットを預ける事。③さらに、預かってもらえそうな人、団体を紹介してもらう事。④定期的に電話などで様子を聞く事。④当日までに現金化する事。などだった。
市内の学校を訪ねクラスだよりなどにも載せてもらった。(事前に複数の版下は準備していた。・・・・これも教わった事だ)
結果は、当時の資料が手元ある。大人565名。子ども189名。とある。合計754名。
多くの人が集ってくれた。
これ以外に、小規模な映画会もあった。
小学校の体育館で開催した時はエアコンがない。とにかく暑かった。たらいにベタの氷(氷柱)を用意した。効果?あまりなかったと思う。費用をおさえるために16mm映写機を借りてき自前で映写。上映はできたが映写機の操作ミス(たぶん)で床にフィルムが散乱したこともあった。
また、旧高槻商工会議所2階のホールで開催した夜の部では、関係者を除けば観客1名だった。顔見知りでもない、その人は、途中で逃げ出す(離れる)こともなく最後まで鑑賞していただいた。
1名に向かって閉会の挨拶をした。心からありがとうございました。
2025年10月16日
- いつも、いついつまでも、国民の暮らしは後回し
久しぶーりの政治ネタです。
毎日のニュースで目にする「次の総理大臣」ですが、どのようにして決まるのか?
総理大臣は国会議員から選ばれる。
衆議院で総理大臣の指名選挙が行われ、過半数の票を得た人が総理大臣の候補となる。1回目の投票で過半数に達した者がいない時は上位2人より決選投票を行い多数を得た者が候補になる。その後、参議院でも総理大臣の指名選挙が行われて候補者が決まる。衆議院と参議院で指名された人物が異なる場合は、両院の代表者による協議が行われる。両院協議会でも意見がまとまらない場合は、最終的に衆議院の議決が優先され、総理大臣が決定する。つまり、衆議院で多数をとったものが総理大臣となる。

総理大臣には任期はないが内閣が総辞職した時は辞職となる。
法や制度からいえば内閣が総辞職していないので石破総理が交代する必要はない。
では、なぜ今、衆議院選挙もなかったのに総理大臣が交代か?
自民党のお家事情だけだ。
いわゆる石破おろしだ。まず、自民党の総裁選を仕掛けた。
高市氏が総裁になった。自民党の総裁イコール総理大臣になれると大喜びした。
ところが、公明党が高市さんでは、やっておれないと逃げ出した。
これは、公明党関係者以外はだれも想像していなかった。踏まれても踏まれてもついてくる『下駄の雪』と揶揄され、大臣ポストをぶら下げたら絶対ついてくると高市さんは思っていた。連立離脱を表明した晴れ晴れとした公明党党首の笑顔と対照的な憮然とした高市さんの表情が何度もテレビに流された。
ここまで来たらなんでもあり。なんとしても総理になりたい高市さん。国民民主、維新、参○党、保○党、○○の会、餌をバラマキながらとにかく総理指名投票で『高市』と書いてくれる政党さがしに奔走。
困った事に、目の前のお肉か人参か、よだれを垂らして餌にとびつく政党までできた。
もっといっぱい餌を頂戴と『政策協議』と言って、おねだりする。
あーあ みにくいい。山犬(やまいぬ)集団だからしょうがないという人もいる。
主義主張ををすてての数あわせはいかがなものか?と、いままで数合わせですり寄っていた当事者の公明党党首がいっていた。どの口で言うのか!あきれたが、もしかしたら経験でつかんだ教訓からかも。
先の参議選挙で皆さんが語った経済対策はいつ議論するんですか?
やっぱり、国民の暮らしより、大臣の椅子が大切なんですね。
結論:法や制度的にも、現状からも石破総理が辞める必要はない。(今は)
石破やめるな集会が各地で始まりませんかね。
2025年10月8日
- わかくさバザー・・・・昔むかし・・・ その④
バザーは、物品販売だけでなく、わかくさを押し出す、市民や他団体との繋がりをつくる事を絶えず目標にしていた。高槻市立つきのき学園などの障がい者施設の展示コーナー。障害者団体や共同保育所の販売コーナー。福祉施設の利用者の皆さんのステージ。わかくさの紹介パネルや仲間の作業実演コーナーなど様々だった。

ステージでは、シンガー・ソングライター 野田淳子さん(上条恒彦さんに認められ1970年にプロデビュー)や夫の中島光一さん(NHKみんなの歌で放送され音楽の教科書にも掲載された『大きな歌』の作詞、作曲者)なども駆けつけてくれた。

中島光一さんは、大学時代から活動をし、卒業後、大阪の障害者施設で働きながら創作演奏活動をつづけていたのが縁だった。
野田さんとの打ち合わせでマイクなどの放送設備は、わかくさが準備する事になっていた。当時はなんとも思わなかったが、今から思えば、恥ずかしく、失礼をした。
用意した放送設設備は、音さえでればよいと思っていたので小学校からお借りした運動会用で、スピーカーはラッパ型だった。それでも嫌な顔ひとつされなかった。
今でも、元気に活動されているそうだ。あの時は、失礼しました。
おかげさまで、わかくさも大きく育ちました。

歌手の野田淳子さんを囲んで
2025年10月6日
- わかくさバザー・・・・昔むかし・・・ その③
無認可時代、バザー以外にも、映画会、コンサート、カレンダーや昆布の販売、地域や他団体の祭りなどへの出店、署名活動など年中暇なしだった。
なかでも、わかくさバザーは、わかくさにとって一番大きな取組だった。
財政面はもちろん、地域の中に、わかくさを押し出し、支援の輪を広げる活動でもあった。
協力をお願いするビラは、今ではみないザラ半紙に印刷した。印刷機も今では見ない謄写式輪転機。ありがたいことに寄付で頂いた。暇な時間があれば、輪転機をまわし印刷をする。紙の代金も心配になるほど何万枚も刷る。文房具屋さんからは商品にならない日焼けした紙だから!といって無償でいただいた事もあった。いろんな人に応援されてバザーができた。
来場を呼びかける宣伝は大事な作戦の一つ。今の時代のように、ネットもSNSもない。
マスコミが取り上げてくれるでもなく、ポスター、ビラしかない。

緊張しつつマイクをもって パンダも駆けつけた
当日も、駅前でビラを配る。マイクで呼びかける。プラカードで宣伝、案内。
目立つように、手作りのぬいぐるみ(パンダ)を着たときもあった。
この後の話。3日間のバザーを終えて
パンダのぬいぐるみが消えた。
いつもゴミだしを手伝ってくれる仲間のYさん。ゴミの日にゴミと思って集積場所にだした。気づいた時はすでに遅し。市役所にも電話したが無理だった。
当時ごみ袋は、中身が見えない黒が主だった。ごめんねパンダ様。
2025年9月29日
- 遅くなってゴメンよ。
行きつけのガソリンスタンドがある。
いつでも150円代。安さにひかれて行き始めた。この日は159円。
このスタンドを選ぶ理由はもう一つある。
店主の遊び心である。
「ご案内」というメッセージがある。
この日のご案内は、『暑さ寒さも彼岸まで』
ホンマかいな?って思ってましたけど急にきました。
先日17日にLINEが来ました。
彼岸花 ⇒ 遅くなってゴメンよ!て

彼岸が来ても暑さがつづく。彼岸花も暑さのせいで、まだ咲かない!と思っていたら
彼岸花から、LINEが来た。『遅くなってゴメンよ』 遊び心を見た。
こせこせした世の中。遊び心をもって、のんびーり暮らしたい。
次回の『ご案内』を期待してアクセルを踏む。また来ます。
2025年9月22日
- わかくさバザー・・・昔むかし・・・その②
1978年から85年3月末までが母子寮跡時代(1985年4月法人設立、認可施設開所)
母子寮跡時代、バザーの規模は重ねる回をごとに大きくなった。
第2回バザー『1978年)は駅前デパート。
弟3回バザー(1979年)から第8回(1984年)まで、JR高槻駅南のグリーンプラザ1号館の屋上が会場だった。。
この場所は、夏にはビヤガーデンで賑わっていた。
バザーの売場台はコンパネ、脚は、酒屋さんから借用した酒箱。テントは福祉施設、団体、工務店などからお借りした。
テントや荷物運びに高槻北高等学校の男子生徒が大活躍してくれた年もあった。
屋上にテントを設置 松坂屋のロゴが少し覗いています 舞台も設置しました
この時代、多くの若者が仕事終え、学校を終えて作業所に集まった。ボランティアと呼んだが、お手伝いではなく運営、運動の中心だった。
友達が友達を誘う。ボランティアの人数がどんどん増えた。
夜7時を過ぎから10時頃までが活動時間。
バザー準備期間は、夜中に犬に吠えられながらビラを撒いた。

日曜、祭日には、物品集め。リヤカーを引きながら、仲間、家族、ボランティアで地域を一軒一軒訪問。約2か月間、毎週続く。
売上380万円の年もあった。(11月に3日間開催)
昔の資料を広げると(第3回バザー)
○電話受付 173件から物品提供
○地域用ビラ 市内28町に29,800枚配布 個別訪問で1,861件から物品提供
○街頭ビラ① バザー宣伝用駅前9日間で35,000枚配布
○街頭ビラ② 当日呼び込み用 3日間に32,000枚
○ポスター 1000枚 とあった。
頂ける物は日用品、衣類、古本はもちろん冷蔵庫、家具、何でも頂いた。
山のように集まる物品に値段つけも大変だった。民生委員、地域のボランティア団体の協力も得た。
福祉施設にも泣きついた。高槻温心療からは、職員研修として多くの人が駆けつけてくれた。
やる前から、大変だから・・・とあきらめる事はなかった。
ぶつかった時、やれる方法を考えた。そこから、多くの繋がり、財産が生まれた。
笑い話だが、
その① ボランティアUさんは、自宅に帰る用意をした。帽子がない事に気づく。値付け済のバザー品物の中にあった。お気に入りの帽子に付けられた値段(タダ同然)をみて目がマンマル大きくなっていた。周囲は笑った。
その② こんな品物も頂いた。
裏庭の柵の中に放し飼いにしているから勝手に捕まえて・・と

当時の呼びかけビラには、タオル、石鹸、食器、古本、学用品、衣類、食料品、おもちゃなどのご提供を!書いてあった。
どこにも該当しないとは思うのだが?(もしかしたら・・・・)それはない。
もちろん会場に運んだのですが、これには買い手が見つからなかった。
あひるちゃんはどうなったか?質問を受けた。
高槻市森林観光センターで飼ってもらえることになり、ほっとしました。
2025年9月20日
- 失敗と書いて、成長と読む。とあるが
壊れても良いなら何でも持ってこい。丸鋸(カーボンブラシ交換)、フードドライヤー(温度ヒューズ交換)、バイク、草刈機(刈払機)、エンジンポンプ、発電機・・・・・これまで、いろいろと修理を頼まれた。
壊れてしまったら困る物はお断りだが、治れば儲け。治らない時は粗大ごみ。そんな時は出番だ。
昨日は、自転車のパンク修理の依頼。本日は、電気シェーバー。
自転車は、パンク、タイヤ交換、チェーン交換、ベアリング交換など何台も経験があるので問題なし。
今回の電気シェーバー(髭剃り)は初めてだった。

症状は、スライド式スイッチが動かない。原因は落下との事。
さあー分解、分解。本来の位置に収めて修理完了。
最近のバッテリー(充電用乾電池)にはびっくり。これ一本で髭剃りができるのだ。
ネットでみたら、新品なら満充電で1週間から10日使えるとか!
寿命は、2年から4年とあった。充分だろう。
治らない時も多々あるが、なんとかなっている。まさに失敗が財産になっている。
野村克也さんの名言。『失敗と書いて、せいちょう(成長)と読む。
失敗して、自分の間違いに気づき、反省し、どうすればうまくいくか真剣に考える。
ゆえに、失敗をせいちょうと読む。とある。
失敗しても真剣に反省していない自分がいる。
肥しには、なってもが成長はできない。
(修理の話です。)
日々の生活では、反省の連続です。口先だけだと怒られていますが
2025年9月15日
- 先も立ち、我も立つ
茨木市の安威川をのぼり亀岡市のスポーツ公園に行く途中に亀岡市東別院町東掛六田という村がある。
『石田梅岩先生誕生の地』という大きな看板がある。
9月に記念館が新築されたので行ってみた。オープンしたばかりで展示物などはこれからのようだ。

石田梅岩(いしだ ばいがん)は、江戸時代中期(1685年)の生まれ。独学で思想を学び庶民に『人の道』を説いた。
教えの根幹は、「正直」、「勤勉』、「倹約」という3つの徳の実践である。
『人の本当の価値は、生まれ、財産、学歴ではなく、その心根の誠実さにある』と説く。人の心・人間の本性を追求した石門心学の開祖である。
記念館の扉をあけると、『先も立ち、我も立つ』とう言葉が迎えてくれる。
まことの商人は、先も立ち、我も立つことを思うなり。
現代の企業経営者で学んでいる人も多い。まずは、お客さんを立てる。続いて、仕入れ先や取引先を立て、働く人(従業員)立てる。己は最後である。くどいが「己は最後」である。石田梅岩の言葉は脈々と現代にげ受け継がれている。
備中松山藩の藩政改革を断行し、財政を立て直した教育者、山田方谷の言葉『義を尽くして利を計らず。』に通じる。
ドナルド・トランプ大統領の「アメリカファースト」
小池百合子東京都知事の「都民ファースト」
参政党の「日本人ファースト」
この方々は、人の道を外れている。
政治や商売だけではない。
己を先に出す人には、人は近寄らない。
その人がリーダーの集団は、まとまらない。平穏に見えても、何かのきっかけで不満が吹き荒れる。
2025年9月15日
- あなたならどうする?あなーたなら?
最近、道の駅など農産物の直売所が賑わっている。
道の駅ではないが、よく利用しているJA(農協)のAコープの店舗で買い物をした。
入口の野菜売り場は、産直野菜。近隣農家の物販コーナー。
なんと、ピーマン一袋がこの値段(3円)
レジで、訂正があるかも!思いつつ買い物かごに入れた。
レジでも3円。だった。
30円でも安い。300円では高い。3円は庶民の味方の経済対策か?
レジもバーコードを読み取るだけ。店員さんも機械的作業をこなすだけ。
レジタル社会の盲点かも知れない。
便利さや効率化ばっかり追求してはいけない。と思ったが、
店員さんに不思議な値段を聞くこともなく買い物袋にピーマンを入れた。
あなたならどうしますか?あなーたなら?
2025年9月10日
- きょうされん大会
第48回の全国大会が奈良県で10月17・18日に開催される。来年は大阪で開催予定である。
きょうされんは、1977年に全国16か所(内6か所は大阪)の共同作業所によって「結成された。結成当時は『共同作業所全国連絡会』と称し愛称が『共作連(きょうされん)』だった。(現在は、ひらかな『きょうされん』)
わかくさの文化住宅時代だ。資金づくり、地域おこし、補助金制度、仲間の仕事おこし、など全国の作業所と交流したいという声は、わかくさでも切実だった。
翌1978年6月、第1回の全国集会が東京で開催され全国から約600名が集った。

横断幕が当時の姿を映し出す。すべてが手作りの集会だった。熱い願いを感じる。
当時のわかくさは、利用者10名。職員1名だったが多くのボランティアも参加した。

第1回全国集会 わかくさの腕章をつけて参加しました。 みんな若い!
第2回集会は大阪で開催した。今は建物もないが、森ノ宮の大阪府立青少年会館をメイン会場にした。(橋下知事時代に廃止、約32億円で売却)
話は横道それるが、ミスタープロ野球と呼ばれていた長嶋茂雄さんは試合前に「俺のストッキングがない」と大騒ぎ。片足に二枚穿いていた。というエピソードを持つ。
共作連の代表は名古屋のSさん。この人もすごい人だ。ミスター障害者運動だ。
開会式で主催者を代表して挨拶の場面。演壇に向かう足元は、昨夜の宿のスリッパだった。急いで、近くの人の靴を借りた。当日の司会だった私はあわてたが、Sさんも周りも平然としていた。よくある事らしい。
当時30代だったSさんには、今日まで何かにつけてご指導いただいている。
きょうされん大会は、これまで大阪では、1978年。1985年。1997年に開催した。
1997年の第20回記念大会は、南港のATCホールをメイン会場にし全国から5000人が集った。実行委員長は作家の藤本義一さん。記念講演もお願いした。
この大会で学んだ事がある。
大会準備に1年間。各作業から集まった職員達の働きぶりである。
『私がやります』と自主的に仕事を取り合うのだ。奪いあうといった方が当てはまるかもしれない。この集団、組織は笑顔にあふれ、いつも笑い声があった。こんな集まりは元気がある。仕事は押し付け合うものではない。奪い合うものだ。
来年の49回大会。29年ぶりに大阪にやってきた。大阪ではすでに準備が始まっている。
仕事を奪い合って笑顔の大会(まつり)にして欲しい。
- きょうされん第49回全国大会in大阪/第1回えがおのまつりチャンネル
(2025年7月22日)
https://www.youtube.com/watch?v=-UvdOnh9tpI&t=8s
動画7分ごろから、わかくさの職員(エイサー宗本)も出演しています。
2025年9月9日
- 安さにつられて
昨年の事だが、ゴーヤの苗だと思って買ったら○○○だった。
鉢に植えて育ち始めて?葉っぱが違う。
老眼鏡なしで小さな文字が読めなかった。安さにつられた。
苗を買う時は、基本は安価なもの選ぶ。安い苗ほど丈夫で育てやすい。
金魚でも丈夫な和金(ワキン)が安くて育てやすい。
云々いうが本当はケチです。
捨てるのはもったいないので育てた。実もなった。

今年は、昨年の種から芽が出た。大きく育ってきた。
花弁大きく目立つ。道行く人が見上げている。実も成りはじめた。
成功・成功『転んでもただでは起きない』?・・・・?
これもいい。『ヘチマ』でした。
2025年9月6日
- わかくさバザー・・・昔むかし
もうすぐ、バザーの季節である。
わかくさの初めてのバザーは1977(昭和52)年だ。
無認可2年目の文化住宅時代だ。

高槻市城西町 宮崎荘102号室 初めてのわかくさの砦 1977年
会場は高槻阪急百貨店。当時は西武百貨店(高槻店)1階のエスレター横の広場だった。物品の多くは関係者が持ち寄り規模も小さかった。
翌年、1978(昭和53)年。文化住宅から念願の母子寮跡に移転。
作業所の仲間(利用者)も増えた。職員も2名になった。
運営費に初めて公的補助金が付いた。(大阪府簡易通所授産事業助成金・・年間77万円)
わずかだが、うれしかった。
いくら叩いても、たたいても開かなかった重い扉が動き出した気がした。
しかし、運営費の殆どは、バザーやカレンダー販売、寄付金などに頼らざるを得なかった。
また、バザーは地域に根をはり支援者づくりでも欠かせないイベントだった。
広い場所でバザーをやりたいと会場探しに奔走。
バザー物品は、地域にビラ配布、毎週日曜日ごとの戸別訪問などで寄せられた。
職員のN川は、いつ壊れても不思議でないと思うほどのボロボロのオートバイにリヤカー縛りつけて遠くまで物品を頂きにいっていた。(わかくさには車は1台もなかった。)今なら、おまわりさんにお叱りを受けるだろう。
宣伝、集客方法など夜遅くまで作戦を練った。・
第2回バザー 会場は,高槻芥川商店街の駅前デパート。
改装前の3階をお借りする事ができた。
当日は、商店街の入口で呼び込みもやった。

ゲスト応援に、元朝日放送人気アナウンサーの『中村鋭一』さんが、駆けつけてくれた。
中村さんの司会でオークションが始まると、他の階の店員さんまで詰めかけ会場は多くの人で埋まった。
その時のオークションの目玉は『ウインドファン』だった。時代を感じますね。
(写真 1978年 オークションの司会 中村鋭一さん)
こんな昔話は鮮明に覚えているが、昨夜の夕飯すら思い出せない。
人の名前なんて覚える事さえ出来ない。
『先生、先生』と読んだり呼ばれる。敬意?便利な言葉だ。
中村鋭一(なかむら・えいいち)
朝日放送の元アナウンサーで同局ラジオ「おはようパーソナリティ中村鋭一です」の名物パーソナリティーとして活躍し、衆参両院の議員を務めた。プロ野球阪神の熱烈ファンで知られ、球団歌を「六甲おろし」と命名し、自ら歌ったレコードをヒットさせた。2017年87歳で死去された。

1978年から母子寮跡で 元は陸軍工兵隊の建物:現在は城跡公園(城内町)
障害があってもできるかも!と、ボランティアさんから寄贈されたゲートボールを
2025年9月2日
- ゴーヤの話・・・元気をください
『秋の風が吹いて 舟をたたむ頃・・・・』いう歌いだしで始まる歌があった。
9月なのに秋の風は吹かない。吹く気配もない。
暑い、熱い夏。いつまでも我が家はゴーヤが育っている。

写真 上:小さいながら我が家の間口全部がゴーヤの棚
写真 下:ゴーヤの棚を下から覗くと
植え付け前の4月、我が家の前で知らない70代ぐらいの女性から、『今年のゴーヤはまだですか?』と尋ねられた。
こんな話だった。
結婚したばっかりの頃。ご主人の故郷の鹿児島からゴーヤが送られて来たが、食べ方がわからない。ご主人が料理をしてくれた。
今は、ご主人は亡くなられていない。
ここで、ゴーヤをみると元気がもらえる。今年も元気を下さいね。
こんな話を思い出しながら夜明けとともに世話をしている。
すべてプランター植えだが、土づくりと水切れしない工夫でよく育っている。
毎日3~4本が収穫できる。
ゴーヤ食べ方をよく聞かれる。
①スライスして湯通し。しぼって削り節にポン酢・・・酒のあて
②から揚げ、てんぷら
③なすびと豚肉炒める。砂糖と味噌で味付け
④お好み焼き風ゴーヤ焼き(水は少なめ。ひと口サイズ)
⑤肉詰め焼き・・・・
⑥○○○なんでもいい。やりながら次が生まれる。
我が家だけでは食べきれない。
見知らぬ人にまで食べますか?一本どうぞ。
2025年8月29日
- 久しぶりにつぶやきました。・・走り続けるには・・
ヤマハパッソルⅡ 40年以上のバイクである。
今でも現役。時々機嫌が悪くなることもあるが、なでなですると機嫌も直る。
ガソリンとオイルたまにタイヤの空気圧。毎日の通勤に活躍している。
さて、本題
最低賃金が過去最高の6パーセント。63円のアップらしい。大阪では1177円だ。しかも、数年内には1500円。本気らしい。
物価高騰が続く。働く立場からいえば賃金のアップは当たり前だ。
10月からは、我々福祉現場も対応が迫られている。
いわゆる時間給で働く人のみだけでなく、正社員、正規職員などとよばれる月給制で働く人の給与も比例的に改善が求められるが出来そうもない。
資本、資金力がある企業は賃金アップを売価に転化できる。する。
しかし、障害福祉サービスの事業者に払われる対価は3年1回見直される公定価格決まり、売価に転化できない。賃金アップの財源がない。
経営をじわりじわり苦しめる物価高騰。最低賃金が上がればさらに物価はあがる。
さらに福祉職場は深刻な人手不足である。運営の工夫、努力は限界だ。
いまこそ、人手不足の解消、最低賃金アップに応えるためには政府の手立てがいる。
40年前のバイクでもメンテをすれば走る。でもガソリンがないと走らない。オイルを切らすと焼きつく。墓場行きだ。福祉現場なら運営できるだけの財源の確保だ。
このまま政府の無策がつづけば事業を撤退するところも出てくる。(いる)。
日本から、地域から福祉を必要とする人を支援する基盤がなくなっていく。
2年後の報酬改定までまてない。
最賃アップ率に準じて、まずは6%相当の基本報酬をアップするのが筋だ。
お金に釣られて職を選ぶ。これには賛同できないが、あまりにも福祉現場の給料は低い。
給与が上がれば、人材不足解消の一助にはなる。
財源はある。この間、減税した税を元にもどせばお釣りがでる。
追記
久しぶり(2年半)に、つぶやいたら疲れました。酒飲んで寝よー!
2022年12月24日
- ざぶとん1枚
午前4時 スマホがなった。
わかくさの機械警備でお世話人なっている警備会社からだった。
「何度も盗難信号を受信した。2か所以上の信号を受信したので警察官とともに巡回したが、こじ開けられたなど人の仕業でないと思う。おそらく小動物だろう。」という内容だった。
その日に捕獲機を仕掛けて帰宅。
しかし、捕獲機は作動したがが餌だけ取られた。

翌朝、出勤したら、いた。いた。イタチがうろうろしている。
作業だなの奥で物音がするので捜索したが発見できず。
様子を見ていた、作業所の仲間(利用者)が一言。
『いたちごっこ』ですね。
うまい!ざぶとん1枚
翌々日、コンビニの唐揚げを餌にして無事捕獲に成功。
山の中で放して一件落着。振り向きもせず、唐揚げのお礼も言わず走りさりました。
2021年9月24日
- 発電機 基本は掃除なり
長年放置している発電機の修理ができるか?とM石さんから依頼があった。
発電機のエンジンは初めてだ。
ミツビシSG1000M
いつものようにキャブレターからクリーナーを噴射してスターターロープを引くと一瞬ブルーンとエンジン音。
エンジンは悪くない。
キャブレターの掃除で治りそうだ。
この発電機はつくりが良い。修理・分解しやすいのだ。
殆どカバーなどを外す事なくキャブレターを着脱できる。
ばらしてみると、キャブの中は古いガソリンでベトベト。
ガソリンタンクもベトベト。
掃除、掃除。そしてガソリンを入れてスターターロープを引く。
イザ感動の瞬間。なんと一発でエンジンがかかった。
感動を妻に報告。「もともと壊れてはいなかったでしょ」だって。
アーアー・・・・返す言葉がなかった。
修理の基本は掃除だ。食洗機、バイク、刈払機、・・・ほとんどが掃除で治った。
次に修理するのは汚れた政治。まもなく選挙。(はなしのこじつけ)
きれいに掃除をしませんか?
「嘘をつかない」「約束を守る」政治家が一人でも増えて欲しい。
2021年1月2日
- 足踏式消毒液スタンド・・試作品2号機
廃材を集めて試作品2号機を作ってみた。
1号機は、上からノズルを押さえる方式だ。2号機はボトルが上がる方式とした。
仕組みは簡単。
踏めば棒が上に動く。
棒の先端ににボトル台が付いていてボトルが上に持ち上がる。
ノズルの上には固定された金具があるのでノズルが押される。

1号機同様①単純な構造で②安価である。これも使いながら改良しよう。
「はにたん」(高槻市のマスコットキャラクター)も消毒を呼びかけているぞ。
2020年12月26日
- 足踏式消毒液スタンド・・試作品1号機
コロナが猛威を奮っている。
銀行や商店の入り口で足踏式消毒液スタンドを見かけた。
ボトルに触れなくても消毒ができる。これはいい。
これなら簡単に作れそうだ。
早速、施設に転がっていた端材を集めて試作品を作ってみた。

①単純な構造で②安価である事。使いながら改良しよう。
2020年11月18日
- 落ち葉
35年前、施設が開所したときに植樹した桜が大きく育った。
春には道行く人々が、足を止め見惚れるほど咲き乱れる。
花の時は短い。
秋になると落ち葉。次から次に舞い落ちる。
風向き次第で室内まで吹き込んでくる。
今の時期は枯葉との戦いである。

話はかわるが、高槻を離れ田舎暮らしを(8年前?)始めた元わかくさ職員のMさん邸に最近お邪魔した。
田舎暮らしよろしく、土間には薪ストーブ、作業小屋には、刈払機(草刈機)、チエンソー、コンプレッサーなどがきっしり。棚には『エンジンブロワー』が居座っている。
別小屋には、耕運機、薪割機、・・・・・ご主人さま?のおもちゃだらけである。
こんなこともあって心騒ぎ。『エンジンブロワー』が欲しい。吾輩も、おもちゃを求めてオークション。

いつものようにジャンク品で価格は2,310円ある。
ゴミかも?と心配しつつ修理開始。値段相応の品だった。
キャブレターを固定するボルトがシリンダー側で折損しているのは想定外。
キャブを分解するとヘドロ状態。これは想定内。
時間はかかったが、なんとか再生できた。強風で一気に吹き飛ばす優れものだ。
枯葉持つ木々
来春にはいつものように満開で励ましてくれよ!桜たち。
みんなの笑顔がまっている。
追記・追想
薪ストーブのある暮らし。いいなー。
炎は視ながら一杯。かなわない夢ですが・・・・いつかはきっと!!
2020年5月17日
- あきらめさえしなければなんとかなる。パッソルⅡ
40年ほど昔のバイクである。

パッソル。パッソルⅡ。パッソーラといえば60代の人なら聞いた事はあるはず。
女性でものれるスクーターの草分けらしい。
最近バイクと違って手抜きがない。丈夫である。
ゆえに、いまでも現役で一部のファンには根強い人気の名車である。
今回も、エアークリーナーの掃除(中身がなかった)。
ブレーキワヤーが固着していたので、ハンドル側からオイルを一晩点滴。
フェノールコックからのガソリン漏れを応急措置。
キャブの掃除と調整。
これで、完璧と敷地内を走行。
しかし、突然のエンジン停止とキャブからのガソリン漏れの繰り返し。
ホームページから知識をもらいながら、あの手この手とやってみた。
キャブを何回取り外し分解しただろう。
あきらめなければなんとかなった。
様子をみつつ微調整がすんだら公道デビューだ。
2020年5月17日
- フィバーしました。
新型コロナ自粛の時。パチンコ、パチスロではありません。
お店の人から、『こんなの初めてです。フィバーですね。』と言われました。
これは、昨日の買い物の話です。
間隔をとり、レジに並び。そして・・・・・・・・・。
支払い金額をみると『7777』

ただ、それだけの話です。
なぜか、徳でもしたような気持ちになりました。
2020年4月15日
- またまた○○○3台目・・・教材が役に立ちました。
長期間放置のバイク修理依頼があった。

バッテリーは×なのでセルは使えない。
キック。キック。世間でいう鬼キック。かかりません。
でも、音に変化あり。なんとなく・・・・いけそうだ。
教材(2台目)を修理したおかげでシリンダー、ピストン、点火プラグ、キャブ。次々と映像がわいてくる。
どうやら、キャブレターの分解は必要なし。
微調整。バッテリーの充電。セルスイッチの接触不良修理。
たったのこれで復活。ヤマハビーノ。よく走ります。
2台目もナンバープレートを取得し通勤に使い始めています。
2020年3月29日
- 達成感
バイク修理 2台目
キャブレター方式のエンジン不調のほとんどがキャブレターの掃除と調整で治る。らしい!
オークションで手にしたものの・・・・・
相当古い 台湾製バイク スーナー50ss(2サイクルエンジン)
排ガス規制で使われなくなったキャブレター仕様だ。
さーあ、やるぞと意気込んだ。
ところが、バラそうにも古すぎてボルト(ネジ)が回らない。
キックは戻りが悪い。ライトもつかない。エアークリナーのスポンジはボロボロ。ミラーはブラブラ。タイヤもツルツル。
高い買い物!と思ったが教材を買ったつもりで、動かなくて元々だ。
壊れてもいいから無理やり分解。掃除。組立。試運転。動かない。
また、分解。掃除。組立の繰り返し。その日は終了。
日を替えて、頭をひやして、気分をかえて、また挑戦。

何回か失敗しながら、なんとなく原因らしいものがひらめいてきた。
やったぞ!敷地内走行では問題なし。

また、職員のFさんに言われそう。
『仕事で味わえない達成感を遊びに求めている』と。
2020年2月23日
- 年寄りのおもちゃ探し
これまで不動の草刈り機(刈払機)、チェンソー、ポンプなど農業用機械の小型エンジンを何個も修理し復活させた。次のおもちゃ探しはバイクに決めた。
不動のバイクを募集中だ。
そんな話をしていたら、友人のOさんが愛車のエンジンが掛からないという。
バイク屋に持ち込んだら分解しないと原因がわからないので費用も高額になると言われたので、バッテリーをネットで購入し取り付けたが治らない。という話だ。
初めての修理なので自信があるわけではないが挑戦。諦めなければなんとかなるだろう。

不動のはずが手元に届いた時にはエンジンが掛かる。
数日後は掛からない。掛かる時と掛からない時があるのだ。
アイドリングも安定しない。
まず、①オイルの点検。不思議なくらい殆どないので交換(Oさん)。
②交換したバッテリーへの配線接続が悪いので直す。
③エアークリーナーも掃除。しかし、改善は見られず。
④軽いカーボン噛みを疑いプラグを外してクリナー液を注入。
⑤ついでにプラグを交換。
いざ、どうだ。
なんと快調。(しばらく乗ってみないとわからないが)
昔のバイクと違い、キャブレターもなければポイント(随分前から)もない。
故障は、しにくくなったが、故障したら部品交換。外装を外さないとできない。
プラグを外すのも奥まっているので大変。素人にはさわりにくい仕様だ。
2019年11月10日
- 秋山登山に挑戦。
段ケ峰(1106m・兵庫県)登山口の看板に熊出没注意とある。
友人は用意よろしく、鈴とおやつ、飲み物、軍手まで準備してくれていた。
前夜の小雨もあがり朝から快晴。
午前8時、いざ出発。この山は、登り始めの30~40分がキツイ。
心臓がパクパク。
歩きなれた登山者が次々に追い越していく。
初心者らしく小刻みに休憩をとりながら、マイペースで一歩々。
急な斜面、ススキのトンネルをかき分け約2時間。
山の尾根につくと景色が一変する。平坦な登山道が続く。

フトウガ峰から望む山々。絶景。
次に段ケ峰。多くの登山者がお湯を沸かして昼食をとっている。ビールも。
帰路は林道に下るコースを選ぶ。立ち杉の目印を探しながら転がるように下山。
なんと6時間も経った14時すぎになった。
明日の仕事大丈夫かな?
2019年9月18日
- もったいないけど食べちゃいました。

ABC朝日放送テレビの新キャラクター「エビシー」
写真は、あるパン屋さんの商品です。
ひとつだけあった貴重な一個です。
買って、写真に収めて、
冷蔵庫でしばし保管。
やっぱり食べちゃいました。
忙しい毎日。
これぐらいの遊び心はいいですね。
2019年7月29日
- 夢を追いかける時間・・・・・・好奇心は生きる力 ピザ窯3
ピザ窯づくりは手直し、改良を重ねながらそれなりになんとか成りつつある。
失敗も繰り返した。失敗は成長への肥しだ。
成し遂げるには、あきらめない心とやってみようという好奇心だ。
H福祉会の理事長さんいわく。『やる前からできない理由をならべるな。』バカタレだ。

焼き方のコツも少しながらわかってきた。
火を入れて1時間過ぎに窯の天井が白くなる。いわゆる煤切れ。適温になった目安だ。
手作り生地も上手になった。(相方の仕事)
好奇心から、肉はもちろん、かぼちゃ、たまねぎ、なすび、さつまいも、ジャガイモなども窯入れした。窯焼きは特別の味だ。素材の旨みが生きている。

好奇心こそ生きる力だ。
知識は生きる力にならない。
○○研修。資格取得。
様々な権力からの押しつけの知識も多い。
マニュアルがないと何もできないようなコピー人間製造研修はごめんだ。
知識は必要だが、ややもすると知識に振り回されて口達者にはなるが本質が見えなくなる。
人間、心は一人ひとり自由だ。
研修とは、自由な心に働きかけ、好奇心を揺さぶる。
動機づけさえできればいい。好奇心が深堀してくれる。
2019年6月15日
- 刈払機(草刈機)リコイルの修理
これまで、エンジンが掛からない刈払機を2台修理した事がある。不調の原因はいずれもキャブレターだった。チエンソーも修理した事がある。そんな自慢話をしていたら、これもお願いと刈払機が届いた。

今度は、エンジンではない。エンジンを掛ける時の紐が切れたのだ。
修理依頼ををすれば5000円程度かかるらしい。ホームセンターで同じ太さの紐を購入した。税込139円なり。修理方法をネットで検索。写真右上のコイル状バネを納めるのにコツがいる。何回か失敗しながらやっとできた。ネットの情報さま様だ。
修理完了。エンジンポンプと同じ人なので修理完了報告しエンジンポンプのその後を聞いたら順調との事だった。
今度は、発電機でも修理してみたい。どこかにいらない発電機はありませんか?壊れていることが条件ですが!
2019年6月10日
- エンジンポンプ
元職員から貸農園の水やりにエンジンポンプが欲しいと話があった。
井戸を掘ったので水はあるが汲みあげるのが大変との事だった。
早速オークションでエンジンポンプを手に入れた。

いつものように、ジャンク品である。
動かない物を、安く買って修理する。動いた時のエンジン音は快感だ。
動かないエンジンの修理は刈払機やチェンソーで経験済みだ。
品物が届いた。燃料を入れコックを開くとキャブレターからガソリンがザザ漏れ。
フロートで動くノズルが固着している。キャブレターの分解と清掃。
エンジンも掛かる。勢いよく水をくみ上げる。やったぜ。
現地でテスト。最初の日は順調。
2日目、不調。エンジンが始動しない。
3日目、始動するようにはなったが、2分ぐらいで停止の繰り返し。
再度、キャブレター分解と清掃。テストでは10分間順調に稼働。
さあー。本番待ち。
長期間放置されていたエンジン。調子を取り戻す日は近い。
2019年6月10日
- 高齢者ドラーバーの交通事故報道に思う
高齢者ドライバーによる悲惨な交通事故が連日報道されている。
被害者はもちろん加害者も悲惨だ。
こうした事故はなくなってほしい。
なくすためには、免許定年制を叫ぶ強硬派もいる。
自分で危険を感じたら免許証を返納すべきだろうが、そんなに単純なことではないようだ。
過疎地では病院に行くにも、買い物も、仕事も車があるから生活が成り立つ。
毎日走り続けている道で危険も感じていない。
ちょっとまった。
本当に、交通事故は高齢者ドラーバーだけが問題なの?
報道が、作為的に『高齢者ドライバー=危険!』を演出してはいないのだろうか?
作為的報道だとすると狙いはなにか?高齢者になったら、①自動ブレーキなど最新技術搭載車に限定する。②自動車(任意)保険・高齢者割増保険料。などが次のステージか?
これで喜ぶのは誰だ。
高齢者ドライバーによる交通事故への対策は必要と思ってはいるのですが。
私はやっぱり『ひねくれ者』
政府が、高齢者専用の新しい運転免許を作ることを検討していることがわかった。この免許は、75歳以上の高齢ドライバーが対象となる見込みで、自動ブレーキなど安全機能が付いた車に限って運転できるようにするという。政府は、今月末に閣議決定する成長戦略に盛り込む方針で、早ければ来年以降、導入される見込みとなっている。(2019年6月11日報道・・・・思ったとおり)
2019年5月5日
- 夢を追いかける時間・・・年寄りの暇つぶし ピザ窯2
世間では10連休。令和・令和と大騒ぎだ。我が職場は昨年並みの連休だった。
福祉職場に10連休など所詮無理な話だ。それでも4連休となった。
休日でも何かしないと落ち置かない性格。いわゆる貧乏暇なしだ。
今年の暇つぶしはこれだ。
ピザ窯作りに挑戦を始めて4ヶ月。小屋の屋根にペンキを塗ったり、薪を入れる場所を作った。ピザを焼くには問題ない。ピザ以外のいろんな材料を焼くにはもう一歩。保温性が足りないのだ。粘土を何層も重ねたがまだまだ足りない。
年寄りの暇つぶしはまだまだ続く。
2019年1月24日
- 立体印刷 3Dプリンター
テレビで見たことはあったが、初めて3Dプリンターに出会った。
奈良県の『たんぽぽの家』障害福祉事業所だ。
障害をもった皆さんが作った作品をデーターとして取り込み3Dで造形プリント。

これに和紙貼り、色づけの作業をして日本の伝統的民芸品『はりこ』になる。
プリンターは電子レンジぐらいの大きさだった。
仕組みは、プラスチック(ABS)樹脂線をヒーターで溶かしながらノズルから吹く。
この作業を繰り返し、積み上げ立体化したものができる。
すごー!さすが『たんぽぽの家』目のつけどころが違います。
なんと今では、家庭用なら10万もしない。
5万円以下の商品もあるというから驚きだ。
物かデーターあれば、誰でも簡単に作れるのだ。
もうすぐ、ペットや彼女、彼氏のフィギアを持ち歩く時代がくる。(もう、そうかも?)
ただし便利さの裏には影もある。
3Dプリンターで銃を複製した犯罪の話は最近だった。
金属などでも成形可能なので、鍵をスキャンされたらすぐ合鍵が作れてしまう。
世の中の変化は早い。いまや4Dプリンター云々という話題まである。
複雑な心境だ。
便利さと金儲け、効率追求の欲望は、人間らしさ、環境を奪っていく。
2019年1月16日
- 夢を追いかける時間
ピザ窯で試焼きを続けている。

写真 左 ピザ投入直後 写真 右 あっという間に焼きあがります。

Mさんが、ピザでビールを飲みましょう!といった言葉を思いだして急いでビールを持出て 乾杯
これは格別。
ピザにビールは合う。
夢とか目標は達成した途端、
一瞬の達成感で終わる。
夢を追いかけ続ける時間、苦労や悩みの旅。その労働こそが尊いのだ。
焼きながら、窯の手直し、焼き方の工夫。まだまだ納得する出来栄えにはならない。
旅はまだ終わらない。(おおげさです。・・・ただの年寄りの暇つぶし)
2018年12月24日
- 思った事はやってみる。ピザ窯づくり
耐火煉瓦を手に入れたので念願のピザ窯を造ってみた。
これがピザ窯??
ピザが1枚焼ける小さい試作1号窯である。
煉瓦を組んで、そして粘土で被う。
粘土が足りない!使いながら改良しよう。
耐火セメントは使用していないので何時でも解体して作り直しができる。

『色を付けたらハニタン(高槻市ゆるきゃら)みたい。』と一言。
○雨よけに屋根を造った。

今度は『前掛け付けたらお地蔵さんみたい!』と一言。
○粘土も乾いてないのに使ってみたい。

下段の焚口に薪をくべると上段に吸い込まれれようによく燃えています。

ピザ・・・・工夫の余地あり。でも美味しい。
焼き芋・・・・中までとろけるようにふっくら。
2018年11月16日
- カンピロバクター
今週月曜日。朝から腹痛む。
自転車で出勤したもののとても仕事にならない。
打合せだけすませて早退し帰宅。
とにかく痛い。
翌火曜日は、どうにか出勤はできた。
後日、原因が判明した。
一週間前の水曜日、数人で鶏肉の居酒屋で会食した。
最近開店したばかりのこの店を選んだTさんは『今でないと閉店でなくなるかもしれない』と言った店だ。
その時、同席したIさんも同じ症状だった。もちろん選んだTさんも。
お店からは、自己責任で・・と言われて・・・・鶏肉の刺身を食べた。
鶏肉・生肉を原因とするカンピロバクター食中毒は潜伏期間2日~5日程度。
ぴったり当てはまる。
『今でないと閉店でなくなるかもしれない』Tさんの予言が的中する日が近いかもしれない。

2018年10月29日 撮影 生野高原
2018年10月28日
- 久々の現地説明会
上牧遺跡の現地説明会が10月27日開催された。
高槻市東部で淀川沿いの遺跡である。道路工事(新名神)に先立っての調査であった。
説明では(1)今回の発掘調査では、古墳時代初頭から古墳時代後期(3世紀はじめから6世紀はじめ)まで続く、集落遺跡を確認しました。特に建物跡は、これまでの調査結果と合わせ約30棟が確認されました。これは三島地域東部でも最大級の発見です。(2)建物跡の他、新たに3基の周溝墓等が発見されました。

現地つくと、やっぱり来たな!と元同僚に声かけられた。
やっぱり行った。この調査は、まだまだ続いている。次回も行くぞ!
2018年8月20日
- 県民性
訳あって、私ども短期間であるが松葉杖での生活になった。
今まで気にしなかった事に気づく毎日である。
たとえば、コンビニのピカピカの床は杖が滑らないか?と怖い。
先日、盆休みを利用し岐阜に足を延ばした。
友人のM氏が岐阜城は松葉杖でもロープウエイで行ける。というので信じていったら大変。
山上駅から天守閣までは階段ばっかり。距離もある。少しだけ歩いたがすぐに断念。残念。
『まさか、本当に行くなんて!』と、後日、M氏の談。
長良川沿いの『道の駅』に入ると、2台分ある『障害者用駐車スペース』を、堂々と一般車が占領している。
空いたと思えばすぐさま次の車が進入する。どれも岐阜ナンバー車。
駐車場を松葉杖で歩いていても止まってくれない。横を避けながら岐阜ナンバー車が次々と走り抜ける。
もっとある。・・・・・。
『岐阜県の県民性』と検索すると真っ先に、『岐阜県民――他人のことには知らん顔だが、身内にはとってもあたたかい』とある。
なるほど・・・・岐阜(美濃地方)のお国柄からなのか?
「岐阜を制するものは天下を制す」といわれた戦国時代、多くの名高い武将を輩出した地域だ。
織田信長もそうだ。天下をとるには他人の事なんか知ったことじゃない。
県民性は、歴史や気候、風土が生み出す。
岐阜県民――他人のことには知らん顔!!もしかして正解か!!??。
『岐阜県人が嫌い。』とか『恨みがある。』わけでもない。
きっと、松葉杖の生活だから気づいたのだろう。
我が街大阪も同じかもしれない。経験して初めてわかる。
2018年8月14日
- 『マルノコ』の修理
友人のM石さんから、動かなくなったマルノコを預かった。
スイッチを入れても全く反応がない。
よくある原因は、コードの切断かスイッチの故障だ。
テスターで点検したが、どちらも異常なし。
新しいマルノコなのでカーボンブラシが擦り減っている事はまずないが点検することにした。

ところが、カーボンブラシが外れないのだ。(写真 右)
特別な外し方があるかも知れないとネットで調べてみてもわからない。
どうせ動いていないのだから壊れても元々。と
小さいドライバーを隙間からカーボンにあてて金槌で叩いて衝撃を与えた。成功だ。外れた。カーボンの側面が何やらこびり付いて固まっていたのだ。
動かない。原因はこれだった。

バネで押しつけてもでモーターの軸(整流子)に当たらないのだ。
反対側のブラシはもっと強烈に固まっていたので砕いて外した。
ホームセンターでカーボンブラシを購入しセットしたら快調に回転した。
修理完了。
久しぶりの自慢するほどでもない自慢話だ。
2018年8月4日
- 神河町 新野の揚水水車
実り始めたばかりの稲穂をかき分けるながら深紅の2両編成の電車がのんびりとのんびりと走る。
播但線、新野駅。
駅に着くと水車が出迎えてくれる。のどかな町である。
「ギー」「ギー」と音を立てて水路から田んぼへ水をくみ上げている。
現役の水車だ
流れる水を動力源として、その力で水を自動的にくみ上げる。
「揚水水車」がある。
歴史は古く江戸時代にさかのぼるという。
しかし、時代とともに村から水車が消えてきた。
新野の人たちは、
時代に取り残された水車を、あえて地域おこしの核にしようと取り組んでいる。
電気も、ガソリンもいらない。
昔の人の匠の技と智慧に感動!

2018年7月23日
- 空調服
熱中症による死亡や祇園祭の「花傘巡行」の中止など、猛暑の話が連日トップニュースである。
とにかく暑い!
みつばち作業所の作用現場では、作業員は空調服をきていた。
扇風機が付いた服だが、送り込まれた風が袖口や首元にながれ、汗を気化して涼しくなるそうだ。
『これなしでは作業はできない。』という。

今年は、先日の大雨、そしてこの暑さ。異常だ。
今日は埼玉県熊谷で41.1℃まで気温が上昇。日本歴代最高を5年ぶりに更新した。
2年後にはこの時期に、東京オリンピックを開催するそうだ。
競技の開始時間は変更しても日程変更はない。
なぜ、最悪の時期にするの?
どうやら放映権料などお金がからんでいるらしい。
暑いオリンピックで荒稼ぎ商品企画。
市民向け空調服新製品開発をきっと誰かがやっている。
空調服姿の人々が町中にあふれる光景が現実化するかもしれない。
2018年7月18日
- 神子畑(みこばた)選鉱場跡(兵庫県朝来市)
久しぶりの『つぶやき』・・・・。
『つぶやき』の更新がされていない。と言われる。
一度止まったものを再開するには、心の準備、そして余裕がいるものだ。
少し勇気をだして更新。
廃墟マニアには堪らない神子畑(みこばた)選鉱場跡に行ってきた。

明延鉱山から採掘された鉱石を6キロの山中をトロッコで運びこの場所で選鉱した。
不夜城のごとく24時間操業。当時は東洋一といわれる規模だった。(昭和62年まで操業)
とにかく、規模がでっかい。
山の上から、鉱石を粉砕しながら階段状になった工場に順々に落としながら鉱物を取り出す。最後は巨大なプールのような水槽に入れ沈殿させて取り出す。
近くには、観光化された生野銀山がある。
神子畑(みこばた)選鉱場跡も明延鉱山は観光化していない。当時の姿、本物の力が迫ってくる。
説明をしてくれる地元のおじさんの話がいい。(昔話が止まらない。)
私、現時点では『廃墟マニア』ではない。飾ったものより本物が好き!それだけである。
本物志向なら明延鉱山もお勧めである。(見学は事前予約がいい)
2017年5月25日
- 今年もこれで季節を感じます。

メダカが産卵したのは2週間ぐらい前でした。
一昨日、生まれたばかりのメダカを発見。
ここ数日の暑さで水温があがり卵から孵化したようです。
隣の池では、金魚も孵化しています。
2016年11月2日
- 咲いていた。

温室もどき(ビニール囲った棚)の中のホテイアオイが咲いていた。
繁殖力が強く自然界では生態系を壊すと厄介物らしい。
もともとは、南アメリカ産で明治時代に観賞用として輸入されたそうだ。
めだか鉢にいれるために春先に買った。
繁殖するたびに広い場所に移すと水面いっぱいに広がってきた。
寒さには弱いので温室もどきに移した。
咲いていた。ホテイアオイ
2016年10月24日
- 労作です。
10月31日のハロウィンは、最近は日本でも定着してきた。
秋の収穫を祝い、悪魔を追い出すイベントだそうだ。
かぼちゃや、大根の中をくり抜いてランタンをつくり悪魔除けとして飾っていたそうだ。
わかくさでも

大きなかぼちゃは、たけのこ作業所からの頂き物。
職員のO氏が時間をかけてくり抜いた。大変な労力を要したらしい。
31日の本番では、ランタンにきっとなっている。
2016年10月17日
- これは難題・・・誰か助けて
今、難題にぶつかっている。
わかくさ南のアルミ缶選別用ベルトコンベアーの修理である。
ずいぶん前に壊れて動かない。
原因は、インバーターの故障である。
壊れたインバーターは廃盤となっていたが似たような商品をオークションで見つけた。

『交換さえすれば直る。』と思っていたのだが、これが甘かった。
交換してスイッチいれると逆回転で少しだけ動いて停止。
インバーターは、周波数やパラメーターの設定がいる。
周波数の設定は60Hz。これは理解できる。
次にパラメーターの設定?。これがわからない。
実は説明書がないので、適当にやっている。
モーターの回転を変えるのも、通常の3相モーターの様に線の入れ替えではなく、インバーターで設定する様だ。これも、わからない。
あきらめるのは早い。あきらめません。今、インバーターと格闘です。
誰か助けて!!。
インバーターは三菱製FR-S510WE-0.1Kです。入力100V 出力3相200V ベルコン用モーターです。
追記
雨漏りのその後。
別の場所2か所からも雨漏り(染み出し)がありましたが、格闘の末、現在は雨漏りなし。
2016年9月22日
- 特別展 始皇帝と大兵馬俑

先ほどの、夏季の福祉会職員研修会で講師の先生が言った。
『福祉職場で働く人間は、仕事以外の趣味の時間をもつ事が大切である。』
講師の先生の話を聞いたそのときは納得もしたのだが・・??????。
その理由は何故か?忘れている。
思い出せないが、まあ~いいや。
講演は瞬間的な感動や納得を得るが、一方通行なので己の都合の良い事だけしか頭に焼きつかない事が多々。
仕事以外に夢中になれるモノは大切である。これだけは焼きついている。
仕事ばっかりでは息が詰まってしまう。息抜きはとにかく大切だ。
今、大阪に兵馬俑が来ている。本物だ。これに行かないと悔いが残る。
休日は混雑していると聞き、やや気は重かったが行って来た。
開場20分前に会場に着いたが、すでに行列。1分々行列が長くなる。
さあー開館。
紀元前221年。秦国の王が始めて中国を統一。最初の皇帝だから『始皇帝』を名乗った。
自ら巨大な陵墓を造らせ、近くに『兵馬俑』を8,000体埋めさせた。
発見されたのは、ごく最近。40年程前の事。
遺跡の発見は、道路、大きな建物などの公共工事の時に偶然見つかる事例が多い。
中国には広大である。殆どの遺跡、遺物は発掘されないままだろう。
すべての中国を掘り起こすのは不可能である。
観たい。知りたい。という誘惑もあるが、いつまでも、そっとしておくのも悪くない。
- 9月17日 つぶやき 雨漏りのその後
20日の台風での大雨 一滴の雨漏りも無し。まだ安心はできないがとりあえず成功。これは仕事か?趣味か?。周囲は趣味と見ている。反論できない。
2016年9月17日
- 雨漏り
我、わかくさ障害者作業所は鉄筋コンクリート造2階建て、陸屋根で築30年を過ぎた。
11年前に外壁塗装と防水工事をしたが、最近、雨漏りがした。
陸屋根は定期的な防水工事を必要というが11年では早すぎる。
雨漏りと縁深い陸屋根は嫌いだ。
業者に見積もりを取ると、部分的修繕は雨漏りが止まらない可能性があるので全面防水工事が良いという。工事費は300万~400万。
それなら、自前で雨漏りの修繕に挑戦することにした。
シートの継目のめくり箇所の修理。穴あき部分修理。そしてパラペットの笠木の欠落部分の修理。
さーこい。大雨。絶対負けるもんか?

写真 左上 パラペット笠木欠落 写真右上 欠落部分修理
写真下 シートの補修
2016年8月20日
- トケイソウ(時計草)
珍しい花が咲いた。
ツル科の植物でトケイソウ(時計草)です。
苗でもらったが、名前も忘れ、花が咲くまで正体不明。
初夏からものすごい勢いでツルが伸びる。
ツルバラ、ゴーヤ、キュウリ、ブドウ、ミニトマトと重なり合って伸びた。
ツルは伸びたが・・・・・ツルだけか?と半分あきらめていたのだが、

咲いた!咲いた!時計草。時計の文字盤と針の様にたしかに見える。
2016年7月25日
- 緑のカーテンの下で
誰もがゴーヤを植えだして、あれから何年。
我が家も毎年ゴーヤ屋敷になっている。
ゴーヤだけでは収まらず、キュウリ、ミニトマト、ぶどう・・・・なんでもありだ。
毎朝、夜明けともに水やりと収穫。そして、メダカと金魚の餌やり。
朝のコーヒ飲みながら、この時間がいい。
うーん。『今年の出来はまずまずか!』とつぶやく。
2016年7月19日
- 『義を明らかにして利を図らず。』・・・・・山田方谷の言葉(理財論より)
山田方谷は幕末から明治に生きた学者であり政治家である。
借金の利息を払うのが精一杯の倒産状態の備中松山藩をわずか7年間で、借金10万両(約160億円)の負債を返済し、さらに10万両の蓄えを残した。
最近、方谷の改革を学べという政治家、学者も多い。
方谷の改革が成功したのは、節約、産業振興はだけではない。
成功の土台は綱紀粛清、誠実な人を育てる人間教育である。
賄賂の禁止などモラル向上、文化、教育を振興することで良い政治が行われ、結果として財務状況が良くなる。とした。
これが、『義を明らかにして利を図らず。』だ。
今の日本はどうだ。
東京知事選・・・・政治と金のスキャンダルが2代も続くとは嘆かわしい。
己の利ばかり図り、義など欠片もない。結果が辞任となった。
今、日本に求められているのは、政治家の義であり誠だ。
方谷は言っている。
『国家を治むるは、特に非ざれば不可なり。才智の能く為す所に非ず。』
優れた人格がない人では国家は治められない。才能や知恵だけでは駄目である。という意味である。
福祉の人材育成も才智のみに目がいっているような気がしてならない。
2016年1月26日
- 規制緩和の行く末
大型バスの事故が続いている。
個々の原因は、いろいろあるだろうが、底流には制度の問題があるようだ。
小泉構造改革のもと、あらゆる分野で規制緩和が進められた。
バス事業もそれまでの「免許制」から「許可制」に変わり、事業者が増大し価格競争が激化した。
結果、運転手の給料は下がり、労働条件は過酷になった。
若い運転手はこない。今回の運手手も高齢だった。
規制緩和が過度の競争を生み安全が置き去りにされた結果だ。
社会福祉分野でも同じだ。
福祉をサービス産業に変質させた福祉基礎構造改革は誤りだ。
行過ぎた規制緩和に未来はない。
冷たい氷の下でも金魚のように、じっと春をまとう。
いや、春の風を起こさなければならない。
2015年12月6日
- 自然の理
外壁を塗替え工事に合わせて、長い間放置させていた不用品(植木鉢、水槽、自転車2台、その他)をどんどん処分した。
捨てる勇気と決断。こんな機会でもないとできない。
やり始めたら止まらない性分もあって、『これが本当にいる?なくては困るもの?』と自問自答しながら処分できるもの探しの日々である。
昨年から飼い始めた『金魚様』も例外ではない。
寒くなる時期。水替えも大変。と、己勝手な理屈をつけて・・・・結論は「不要」とでた。
もちろん、川に放流なんかしません。
我が家の小さい水槽から、職場の大きな水槽に引っ越しだ。
鯉と金魚が同居 赤色が薄い金魚が我が家から来ました。
そして、びっくり。
職場の金魚は赤色が濃い。我が家の金魚は色が薄い。
日当たりが悪い我が家では、きれいな赤色にならないのだ。
植物も人間の同じ。環境に生物は左右される。自然の理だ。
2015年11月25日
- 我が家の11月 外壁塗装
『外壁、屋根の塗装をしませんか?』と、電話や自宅訪問がよくある。
『計画はありません』と何度も断ってきた。
今回も、その気はなかったのだが、我が家より新しい隣家が塗装工事を行ったことで気持ちが傾いた。
飛び込み業者に見積もりをしてもらってびっくり『たかーい』
ネットで塗料の種類、足場の値段、工程など概略を調べる。
しかし業者選びは難しい。
高すぎたら手が出ない。安すぎても心配だ。
とりあえず、複数業者から説明を受けた。
それなりの工事実績があること。安価である事。そのうえで、安価な理由の説明ができる事。工事途中で追加工事が発生した時の対応。何よりも人柄。などなど。2軒同時契約で割引交渉も行った。そして契約。
業者決まれば、あとは早い。足場建て、養生、下塗り、中塗り、上塗り、完成までに天候にもよるが約10日間。
我が家の場合は、雨天もあって暦日で2週間だった。

一般的にはこれで済むが我が家は、塗替えの前後に荷物移動の作業があって大変だった。
家の横壁面に小屋根をつけてウナギの寝床のような倉庫がある。
この中には自転車3台とばらした部品の山。水耕栽培用道具。棚には材木。その他。
これを足場の前に移動するのに1日。
そして、完成後、屋根(波板)の張替と元に移動するのに2日。さすがに疲れた。
理想だと一般的に言われる10年毎の塗替えなんてとてもでできない。
2015年10月16日
- 色づいてきた
色づいてきたのは、山々の紅葉ではなくこの夏生まれた金魚たち。
生まれた時は、黒色だった。
黒く生まれた金魚は、黒いまま育つと思いがちだが赤く色づいてきた。
ランチュウだからそうなるの?・・・・知りません。
今もって、黒いままの金魚はどうなるの?・・・・知りません。
大きくなって黒い金魚は生まれた時は何色?・・・・知りません。
ただ、孵化させた金魚が育つのを楽しんでいるだけだ。
2015年9月15日
- 欲しくもないにマイナンバー
『マイカー』『マイホーム』など『マイ○○』といったらなんとなく聞こえはいいが、10月より個人に送り付けられてくる『マイナンバー』だけは例外だ。
個人に12桁の番号が付けられ、税、年金、預金口座、商業目的へと順次導入されようとしている。
数日前には、消費税率10%引き上げに伴い、飲食料品の2%分を払い戻す「還付制度」にマイナンバーを使う案も出てきた。
しかし、個人情報の漏えい、流出は、危機管理を徹底しても先般の年金情報流出みたいに必ず起きる。
刑法の罰則まで準備し、情報を取得する事業主に、相当の対策を義務化しているが、果たして万全か。
多くの情報は、パソコンで管理されている。
しかし、時代とともにパソコンウイルスは進化している。
流出すれば、セキュリティは強化されるが、新手のウイルスがまた出てくる。
いたちごっこである。その時は、すでに何万人かの情報は人手に渡っている。
5年後には、公的目的だけでなく、民間の商業目的利用まで導入が検討されているから、なおさら危険な制度である。
JRの事故もそうだったが、危険が予見できたのに対策をとっていない時の責任大きい。
国には予見できる危険を回避する責任がある。
マイナンバーは利用する範囲は少なくするべきだ。
まして、商業目的、銀行口座など民間利用は絶対反対だ。
そういえば、数年前、多くの税金を使ってシステムを構築した住民基本台帳(住基ネット)はどうなった。
2015年8月23日
- 夏の終わり
高校野球も終わり、とんぼが飛び交い夏も終りが近づいてきた。
我が家の家庭菜園(プランター栽培なので菜園とは言い難いが)?も夏の終わりだ。
水耕栽培のミニトマトはたくさん収穫できた。
大玉トマト、パブリカ、胡瓜・・・・・。
そして、家族だけでは食べきれないゴーヤ。


先週ぐらいから、大きく育たず、黄色になりだした。
あーあ 夏の終わりだ。
朝夕の水やりからは解放されたがなんとなく寂しくなる。
来年に向けて土づくりを始めよう。
2015年8月13日
- 140円・・・・エアーコンプレサー修理の続き
圧力スイッチを交換すれば直るのは間違いない。
ネットで調べてみれば3000円程度で販売されている。
パッキン弁だけ手に入ればもっと安価で修理できるはずと思い、ダメ元でホームセンターに依頼してみた。
メーカーからの返事は、『パッキン弁だけは置いていないが、分解してお送りする事もできる。』だった。値段は140円なり。
ホームセンター経由なら送料も要らないのでありがたい。
1週間後に届いたので、組み込んで修理完了。
新興製作所(メーカー)の良心的な値段に感謝。もちろんカインズさんにも。
2015年8月4日
- なんでも修理
暑い!熱い!
先々週の週末から地域の夏祭りが始まった。
焼きそばや、おもちゃ販売が毎週末これからしばらく続く。
一晩で焼きそば千食あまり販売する。
おもちゃの仕入れも半端な量ではない。
一回目の祭りには私は参加してないのだが、商売道具のエアーコンプレッサーがエアー漏れして空気が溜まらなかったそうだ。
一晩に何か所も出ていくために予備のコンプレッサーもあるので問題はなかったそうだ。
いずれ粗大ごみになってしまいかねないのでとにかく修理に挑戦だ。
調べてみると、よくあるパイプ等の接合部の漏れではなくて圧力スイッチからだ。
とにかく分解してみた。圧力調整弁(?)が破れている。

コーキングで破れた箇所を補修してみた。
試運転・・・・・快調・・・・・エアー溜まる。
成功!と思ったが・・・・・残念。すぐに漏れてきた。
これぐらいでは諦めないぞ。次の一手を思案中。
2015年7月28日
- ながいトンネルを抜けて
旅の話ではありません。
ずいぶん長い間、『つぶやき』の更新できない状態が続いている。
そろそろトンネルを抜けだそう。
先ずは、近々の自慢話をひとつ。
金魚(ランチュウ)の孵化に成功しましたよ。
めだかの孵化はいたって簡単。
ならば、金魚でもできるはずだ。が、そもそもの出発点。
たまたま毛糸が手元にあったので毛糸を丸めて使用した。
水槽に丸めた毛糸を約1週間あまりいれておく。

そのままだと産み付けた卵を食べてしまうので、空き容器に移して1週間待つ。
これの繰り返しを何回となくやっている。
そして、
先日、1週間近い出張から帰って水槽を覗くとびっくり。やった。

観客が一言。夏祭りで金魚すくいでもしませんか?
これには、がっくり。感動してよね。
2015年1月18日
- 小山田遺跡現地説明会
1月18日の奈良明日香村で巨大な石積みの濠が見つかった小山田遺跡の現地説明会に行ってきた。

7世紀最大級の一辺約50メートルの方墳の可能性があり大化の改新で活躍した中大兄皇子の父・舒明天皇が最初に埋葬された墓だった可能性が高いと大きく報道された。
現地は明日香養護学校の敷地内で校舎の改築工事にともなう調査での発見だ。
駅から、現地まで人の列が続いていた。報道では、約8000人が訪れたそうだ。

また、その日は、年2回開催されている高松塚古墳の壁画の公開も行われていた。
当日受付でも見学可能と聞いたので、さっそく申込んだ。
見学時間は、10分間の制限付きだが壁画にも会えた。
修復作業中の壁画は昭和47年発見当初の色彩はない。
発見後、壮大な設備を施し機械的に管理していたはずなのに残念である。
人間の力は完璧でない。
自然の偉大な力は抑えるのではなく、共存し自然から学ぶ事ではなかろうか。
2014年9月22日
- 製麺機の再生 その次の一手
圧延ローラーのメッキ加工は失敗だった。
原因は、メッキ前の下処理に問題があった。
錆をきれいに落としてから行う必要があったが手抜きをしたのが原因だった。
ならば、もう一度と思ったのだが、完全に錆を落とすのは大変な作業である。
あきらめないで他の方法を探した。
すると、下記の一文にたどりついた。
鉄製品のさび防止
鉄製の包丁や鉄鍋はさびやすいので、緑茶のパワーを借りてさびを防止。茶殻を市販のお茶用パックなどに入れ、それで包丁や鍋を磨きます。緑茶の成分が鉄分と結びついて表面に膜を作り、さびにくくする効果がある。
さっそく実験開始。
小麦粉に茶葉を混ぜて、団子を作り、何回も圧延ローラーを通した。
ピカピカになるわけではないが、表面から錆はなくなりなめらかになった。
その後、約半月使っているが錆は出てきていない。
お茶の効能と、使い続ける事で小麦粉のでんぷんが錆防止に役立っているようにみえる。
諦めさえしなければ、なんとかなる。自然の力に学んだ。
実験が続いたため、我が家の毎週日曜日の昼食は“うどん”が定番となった。
だれも文句は言わない!言わさない!
2014年8月27日
- 製麺機の再生 次の一手
本体は、田中式本来の色に近いペンキに塗ってきれいになった。
しかし、圧延ローラーからの浮き出てくるサビが止まらない。
ペンキ以外でサビを閉じ込めるには、どうしたらいいか?
たどり着いた方法は、銅メッキだ。
特別な装置はなくても、メッキは家庭でもできる事を知った。
塩素系の溶液の中で、3ボルト程度の電圧でプラス側に銅を、マイナス側にメッキする材料をつなげば30分程度で銅メッキができるらしい。
さっそく実験開始。
メッキ前のローラー 白い泡が出てきてメッキ中です
さて結果は?
一応、銅メッキらしき物はできたのだが、まばら状態だ。
さらに、メッキ表面の強度があまりない。
今回の結論:失敗なのだ。
2014年8月21日
- 製麺機の再生
オークション市場で製麺機は人気がある。
落札には競り合いになるのが通常だが、私以外には誰も入札しなかったサビサビの製麺機が届いた。運賃の方が高くついた。
台板の裏には、『○○から 昭和弐六年 弐千円で購入 ○○』と墨書きがあった。
部品の欠品、欠損など致命的な問題はない。
戦後間もない時期の職人の手作臭がプンプンしている。
『いい仕事をしてますね!』と言いたくなる。
修理して再生する楽しみは格別だ。
分解しサビを落とし、磨いて、ペンキ塗り、組立た。
普段の仕事から解放された充実した夏休みだった。
試しに、うどんを作ってみた。
再生前 再生後
完璧な仕上がりと思っていたが、数日したら、ホッパーと圧延ローラーにサビが浮き出てきた。
直接食材が触れる場所なのでペンキは塗っていない場所だ。
さーどうする?
ただいま、次なる手を思案中!
2014年8月7日
- オークション 届いた頃には 熱は冷め
TVショッピングの『期間限定』『数量限定』は購買心をあおる。
ネットオークションは、そうした要素に加え、競争心まであおる。
見えぬ相手に負けまいと頑張ってしまう。
しかも、終了時刻の殆どが夜なので、飲酒状態である。
落札したものの、届いた頃には熱もさめて、おき場所にも困った!という人いるだろう。
悔やんでも、もう遅い。
私は・・・・
きっと無いはずだ。おそらくない。無いことにして・・・・・・。
うどんづくりを始めて、ネットで作り方を調べていたら、昔の製麺機で作る動画にたどり着いた。
子供の頃、見た記憶がある昭和の時代の品物だ。
欲しい!値段を調べたら結構高い。

結局オークションに頼る。
サビサビでぼろぼろのものをくず鉄のメカタ相当の価格で落札した。
送料の方が高くついた。
もうすぐ着く。熱はまだ冷めていない。
分解して、修理して、磨いて、ペンキを塗って使うぞ。
2014年7月26日
- やってみたい事がありすぎて
わかくさの職員間で燻製が広がってきた。Y留さんはキャンプ用のコンロで爆発事故を経験したので、燻製箱を改造して電熱式にしてサーモ(温度調整器)まで購入して本格的だ。
F江さんは、酒の肴に燻製を食べたい!の願望で燻製箱の注文を受けた。
マンション用に小さめの物を作った。すぐに挑戦しチーズやウインナーなど上手につくれたそうだ。
私も、毎週末には燻製をつくり続けている。同じ様にやっても毎回味がちがう。
燻製は奥が深い。だからおもしろいのだ。
奥が深いのは燻製だけではない。
手打ちうどんも奥が深い。
材料は、小麦粉と水と塩だけだ。
材料の質、塩加減、水加減、熟成時間、こねかた、足踏み、打ち方、などで味がかわる。
これもおもしろそうだ。ネットで作り方を調べてやってみた。
Y留さんあなたも始めませんか?
打ちたてのうどんの味は格別ですよ。
・・・少し普通でないY留さんは、同じ事や人から薦められたことは絶対やらない。絶えず自己流の道をさがすから、きっとなにか違うことを始めるはずだ。
何か始めたら教えてね
2014年7月8日
- 時代の変わり目
ガンガンした真夏がそこまできている。
梅雨明けが待ちどうしい日々。
今月末から週末には約一月間地域の自治会などの夏祭りが開始される。
30年以上前から、わかくさは毎年出店してきた。
かき氷、焼きそば、金魚すくい、たこやき、フランクフルト、スーパーボールすくい、綿菓子、いかやき、・・・・なんでもやった。
会場によって、売れすじが違う。売り方にも工夫がいる。
買い手の心の底を、心理を、いかに読み取るか?商売の面白さはここにある。
そして、買ってよかったと!喜んでもらえる事が次につながる。
こんな講釈を説きつつ、第一線で動いていたのも10年ぐらい前までだ。
もう時代が変わった。もう年寄り族に仲間入りした私には出番はない。
先日、今年の、おもちゃの第1回目(何10万円分)の商品が届いた。
今日は、若者?が屋外で値段つけを行っている。
そばをこっそり抜けて帰宅した。
2014年7月5日
- 今年の屋上菜園
昨年まではAさんが退職後もちょこちょこ顔をだして施設の屋上で野菜作りを行っていたのだが、今年は忙しいのかあまりこなくなった。
今年はAさんに替わり野菜作りを行っている。
苗は高くつくので、ゴーヤと胡瓜の種をまいた。
日当たりも風とおしもいいのですくすく育ってきた。
いまでは、毎日4~5本の胡瓜が収穫できる。
ゴーヤも来週ぐらいには収穫でき始めそうだ。O田さんから一本目は予約がついている。
ここからがいつもの自慢話である。
休日に野菜の水やりに出てくるのは負担である。
Aさんみたいに周りの人に休日の都合を聞き歩くほど・・・・は、なれない。
ならば、タイマー付きでみずやりを自動化できないか?と考えた。
市販のものがないわけではないが、自作することに意義がある。
そして、出来るだけ廃材を利用して安価で作ることに喜びがある。
完成したのがこれ。
雨水を貯める。壊れた消毒などで使う電池式噴霧器のウオーターポンプをタイマーで決められた時間に水を送り出す。適量の水を全体に落とす方法はキャンプ用テントの支柱を利用した。支柱のつなぎ目から適度の水が落ちる仕掛けだ。何回も実験を重ね改良を重ねた。
M尾さんがそのうち、『つぶやき』自慢するつもりでしょう!と言ったが予言が的中した。おもしろくもない自慢話だ。
タイマー(1000円程度)だけは買ってきてしまった。これは自作できなかった。
ポンプもタイマーも使わないで、土が乾けば水が補給される仕掛けを来年は挑戦しよう。目標ができた。
2014年7月2日
- 水耕栽培 その2
水耕栽培は、ミニトマトだけでなく、ゴーヤや胡瓜にまで発展した。
毎日、溶液は小さめのバケツ2杯も必要だ。仕事に行く前と帰宅時が液肥づくりと補給の時間だ。
毎日の水遣りがあまりにも大変なので、タンク付きの装置を手作りする事にした。
仕組みは市販されているホームハイポニカを参考にした。下のタンクから栽培層にポンプで吸い上げ一定量になるとオーバーフローしてタンクに戻る循環型だ。
ただ今、試作実験中がこれ。
最初の問題は、ポンプとホースの接合部からの水漏れだったがパイプシールを巻いたらとまった。
次の問題は、給水、排水パイプを同径にしたら排水が追いつかなくて栽培層に溶液が一杯になってあふれそうになった。
排水パイプを大きくするか、2箇所にするか思案中。
さあー次はどんな問題にぶつかるやら?
なにがあろうとどうにかなるさ。いままでだってそうだっただものね。
あきらめないかぎり。
2014年6月12日
- 水耕栽培
わかくさの近所に水耕栽培の施設がある。
一本の苗から1万個以上のミニトマトができるらしい。
最近もテレビ放映されたそうだ。
ビルの地下室などで、人工照明を使い野菜を栽培する方法は季節に関係なく虫食いのない野菜が栽培される。これも水耕栽培が主流だ。自然環境に左右されない利点もあり広がりをみせている。課題は空調や照明などのコストらしい。
遺伝子組み換え農法、マグロの養殖など自然の法則に逆らう人工的な食づくりはいかがなものか?と思う。
と思いつつ、興味がわけばすぐ挑戦してみたくなった。
水耕栽培装置は大体1万円程度で販売されているが自作でもできそうだ。
液肥(ほとんど水)に根っこを浮かせ、水中に根を伸ばせばいいだけだ。
後は、水中に金魚を飼育する時のぷくぷくで酸素を送ればいい。
液肥を補給し水面を一定の高さに保つ機能もあった方が良いがなくてもできる。
試作品1号器はこれだ。いたって構造は単純だ。
プラスチックの箱にぷくぷくで酸素送る。水流を作るために水槽のポンプで循環させている。液肥が減ったらやかんで補充すればいいとした。
初めて一月半が過ぎた。驚きと感激である。
ものすごいスピードで成長する。あまりのも伸びるので無理やり誘引して横に伸ばしている。
粒も大きく鈴なりに実がつく。
大変なのは液肥の補充だ。毎日3ℓも吸い上げる。これは予測していなかった。
おかげで、液肥づくりとその補充に追われている。「水奴隷」から解放されるのはまだまだ先のようだ。
2014年4月7日
- わかる?わかりません。
私どもはまったく興味のない話だが仮面ライダーは何号までいるのでしょうか?
左の写真が我が家の手作りクッキーだ。右の写真は、映画村での写真。
どれが誰やら、さっぱりわかりません。
2014年3月31日
- 燻製 その3・・・・・失敗と書いて成長と読む
プロ野球の野村克也氏の言葉だそうだ。
先日の研修会で教えて戴いた言葉だが、失敗無くして成長はない。
仕事の話ではなく燻製づくりだ。
塩漬け、塩抜き、風乾、燻製。まともにやれば1週間ぐらいかかる。
最初は塩漬けの時間が短すぎた。(3日から1週間必要なのに半日だった)
次は、塩抜きの時間が足りない。(適当にやったら辛かった。)
次が、塩抜きの時間が長すぎて味があまりしなかった。
そして、初心者がよくやる失敗のスモークのやり過ぎ。
失敗しても、失敗してもメゲル事はまったくない。
後工程で(調理段階)どうにかなるので捨てることなど無いし、それなりにいい味だ。
燻製は、味付けから、燻製チップの種類、燻製の方法など奥が深い。
標準的な方法は、書籍などにのっているのだが、詳細になるとすべて方法が微妙に違うのだ。
皆、最後は自己流。職人技、自己満足の世界だ。
今回は、豚肉に挑戦した。土曜日の深夜スモーク開始。

朝、目が覚めた頃には出来上がっていた。ぷりぷり感がたまらない!
2014年3月18日
- 燻製 2
すぐにでも使いたくなるのが心情だ。
しかし、肉や魚の燻製には、塩漬け、塩抜き、乾燥と4日間ぐらいの前行程が必要である。
豚肉のひれ肉と帆立貝を塩付けにした。これは数日後だ。
前工程がいらない物を探した。
チーズ、ウインナー、コンニャク、たくあん、ソーセージ、チクワだ。
5時間ぐらい燻した。できあがりは写真のとおり。
初めてにしては上出来。酒が旨い。
2014年3月16日
- 燻製
M石さんに刺激されて燻製に挑戦するぞと心に決めて数日たった。
燻製をする箱は2~3千円でホームセンターなどでも購入できるが小さい。
本格的な物もネットなどでも売られているが高価だ。
ダンボールを利用する手もあるがM石さんの燻製器を参考にして木工で手作りする。
前回、部屋中が煙で大変なことになった対策は、台所のコンロの上乗せて換気扇から排煙する事して高さを決めた。
27cm角のもち網を利用するので縦横の寸法は決まり。
コンパネを切断してビス止めするだけだ。多少のズレは気にしなくて良いらしい。
室内に網受けを付けて、扉を取りつけて完成。扉には下部に吸気穴を開けた。
M石さんに比較すると、人間の大きさに比例して一回り小さい。
2014年3月10日
- 最高の祝福
我が職場のNさんとKさんが昨日結婚式を行った。
時代と共に結婚式、披露宴のスタイルが変わった。
牧師を前に愛を誓う。仲人はもう要らない。会場はホテル。プロの司会者。
さらに、ハイテク。その日の映像が会場に映し出される。
ネットに写真がアップされ注文もできるサービスまであった。
新郎の猛アタックで成就したと聞いたとおり新郎は満願の笑顔だった。
披露宴の主役は、新郎、新婦だが、この日はもう一人の主役がおられた。
新郎の前の職場の皆さんの音楽にあわせて踊りが始まった。
これはいい。新郎、新婦への最高の祝福だ。
Nさん.Kさん.いついつまでも、お幸せに!
2014年3月6日
- 燻製に挑戦したい!
年度がわりの時期だ。
今年は、新ホームの建設準備も重なり例年以上いそがしい。
このページで「つぶやく」心のゆとりがない。
M石さん(茨木市にある施設の所長さん)がうらやましい。
M石さんは、スキーや魚釣り(釣り船所有)、大工仕事(プロ並み道具一式所有)など中途半端ではない。遊びへの気の入れ方が違う。
最近は、木工で燻製器を自作し燻製を始めたそうだ。
出来上がった、燻製品を見せてもらった。美味しかったそうだ。
M石さんに刺激されて、燻製に挑戦したくて心が騒ぐ毎日である。
数年前、煙が部屋中に広がり失敗して諦めた燻製づくりだ。
必ず、再挑戦するぞ。時間探している。
2014年2月25日
- XPパソコン
XPのサポート終了と消費税増税前の駆け込みで買い替える人が目立つ。
WindowsXPは名機だと思う。まだまだ現役なのにもったいない話だ。
壊れてからでも遅くない。いつまでもXPを使い続けてやろうと思っていた。
そして、いつの日かマイクロソフトを卒業し、無料OSに挑戦してみようと考えていた。
ところが、先週の土曜日
何の前ぶれもなしに突然、画面が真っ黒。頭の中は真っ青になった。
電源ランプはつく。
以前に液晶パネルへのコネクターが外れていたことがあったが今回は違う。
バッテリーや周辺機器を外し、時間をおいても駄目だった。
前兆はなかったのでハードデスクが原因ではなさそうだ。
マザーボードかも知れない。
バックアップは昨年の夏ぐらいにとったが最近の必要なものはない。
急ぎの仕事があるので修理屋さんでデーターだけでも抜き出して貰うことにした。
親切な修理屋さんが即座にデーターの抜き出しでくれた。よかった。
修理屋さん曰く。『パソコンはあてになりません』だって。
○○メーカーのパソコンはマザーボードが壊れやすいそうだ。
XPとの別れの日が近づいてきた。
それでも捨てがたいXP。
どなたかXPノートパソコンを・・・・・か?
2014年1月29日
- インフルエンザ
インフルエンザが猛威を振るっている。
わかくさ内では12月末に第一波が来た。
正月休みで一時終息し一月初旬には安心していたのだが、月半ばから末になって第二波がきた。
第二波はすごい。大暴れしている。
毎朝の打ち合わせボードに書ききれないほどの人数だ。
我輩も先週末から少し怪しい症状があった。
土曜日は微熱、日曜日には、38.5度。
月曜日の朝は37.4度。食欲もあるし、仕事ができない訳でもないので出勤したのだが、朝の打合せを聞いて『こんな事をしている場合ではない』と思い知らされた。
その足で通院したら、インフル、今週いっぱいの安静加療の診断書を頂戴した。
自分は良くても、周りが迷惑する存在だった。
その日から、自宅の一室での生活が続いている。
家族も近づかない。テレビを見るか寝るだけだ。話し相手は『ねこ』だけだ。
体を動かさないから、食欲も一気になくなった。酒も旨くない。
病人らしくになっていく自分が判る。
周りにうつす心配がなくなるまでは病人らしくしよう。
2013年11月12日
- 小さな期待を裏切った。
休む日もなく働き続ける我が家の働き者といえば食器洗浄器だろう。
過酷な労働に耐え続けて10年あまり。1代目は4~5年使った。
2代目は2年と持たなかった。(専用洗剤を切らした時普通の洗剤を投入したら壊れた。)
今の食器洗浄器は3代目で1代目とほど同様の製品で10年近く故障しらずだった。
この製品は、前開きで大きな鍋も洗える。使い勝手が我が家に向いている。
しかしながらスタート時にピーピーとエラーが出始めた。
食器洗浄器洗剤やクエン酸いり洗剤などを使用し、だましだまし使い続けてきたが、最近では2割以上の確立でエラーが発生する。
原因や修理方法をホームページで検索するとヒントがいっぱいあった。
水が一定量溜まると洗浄工程に移るのだが、水位センサーの異常でタイムオーバーになるらしい。
ここまできたらやるしかない!壊れてもともと。いざ分解。
裏蓋を開けてみると、水位タンクの中はヘドロが一杯でフロートもベトベトだった。(ウエー・・・・)
掃除をして修理完了と自信満々で試運転をした。
エー!・・・・・機械から水が漏れ出し大変な事態に。
そばからは、いよいよ新品の洗浄器を期待するような眼差しが突き刺さる。
あきらめ切れず、あの手この手。ここから3時間あまり悪戦、苦闘、挑戦が続く。
やっと原因発見。水位タンクに水をおくるホースのヘドロ詰まりだ。
掃除も完璧。やったぞ!以後、快調に働いてくれています。
今回も、『新品になるかも?』という期待を裏切りました。
これって自己満足ですか?やっぱりね。
2013年10月27日
- 斑鳩の旅 10/14(その③ 五重の塔編)
法隆寺の再建、非再建の論争は、再建説が有力なようだが再建説でも世界最古の木造建築であることに変わりはない。
五重の塔は高さが32メートル余り。
この木造建築が1300年以上前に建てられた。
1300年間には、地震も台風も何度もあった。
法隆寺に関わらず、五重塔は地震や台風で倒れたことはないそうだ。
法隆寺五重の塔 法輪寺三重の塔(昭和50年再建)
なぜ、倒壊しないのか?
西岡常一氏の内弟子の小川三夫氏によると、30メートル超の通柱で造る構造だったら倒壊するという。
出雲大社の旧殿は古文書や発掘調査によると3本の丸太を金輪で縛り一本の柱にした掘立柱構造で50メートル以上の建物だったらしいが現存していない。
五重の塔にも心柱はあるが、一番上の相輪を支えるためであり構造には無関係だそうだ。
倒壊しない訳は、各階が独立しており、重ね合わせている構造にあるという。
地震など大きな揺れをうけても同じ揺れにならず力を分散させてくれるそうだ。
基壇にも地震に強い工夫がある。
表土を本来の地山まで掘り起こし、地山と同じ粘土質の土を敷いてその上に薄く砂を敷いて軽い棒で突く。何度も繰り返して基礎が造られている。
1300年も前の智慧に驚くばかりである。
阪神大震災後、耐震補強だといって、やたらに金物で構造物を固める方法をとっている。
これでは、一定の揺れにはビクともしないが、限度をすぎれば一期に倒壊する手法だ。
なぜ、古代の智慧に学ぼうとしないか?
建築基準法が建築や携わる職人技術を落としたというが納得である。
2013年10月21日
- 斑鳩の旅 10/14(その② 宮大工編)
古寺、仏像にひかれ法隆寺には過去何回も訪れた事がある。
今回は少しだけ目的が異なる。
法隆寺最後の宮大工・故西岡常一氏に足跡に触れることである。
門前にある観光センターの2階には西岡氏の使っていた道具なども展示されていた。
西岡氏が復元したヤリガンナ
世界最古の木造建築法隆寺。
西岡氏著書「法隆寺を支えた木」や「口伝の重み」によると
山で1000年生きた木は、建物に柱なって第2の人生が始まるという。
大切にすれば樹齢と同じ1000年はもつという。
法隆寺の柱は、大木のヒノキを4つに割って木目に沿ってチョウナやヤリガンナで丸い柱に仕上げた。
木目に逆らっていない表面は雨にあたっても浸透せず流れるので腐らないそうだ。
宮大工の教えでは、木を使うとき南向きの木は南向きに、山に生えていた方向のまま据えるそうだ。
切った後も木の性質は残る。日光になれていない(陽裏)面は南に据えてはならないそうだ。
また、木はねじれ、反る。その癖を見抜き適材適所に振り分け使うことで力が相殺されより強固になるそうだ。木の癖組みである。
1000年持つ木を20~30年で廃材にしてしまうような現代社会の木の命を縮める行為に警鐘をならしている。
自然の法則に学び、癖を見抜き、適材適所に木組みする・・・・・だから1300年前の木造建築が堂々と存在している。
大阪駅周辺や阿倍野では近代ビル次々に建築されている。しかし、どんなに修理、修繕をつくしても1300年の命はない。
自然の法則に逆らい経済欲や利便性などが優先される思想が根底にある構造物だからだ。
2013年10月15日
- 斑鳩の旅 10/14(その① 平群編)
秋晴れが心を誘う。
夜明けを待って高槻をスタート。めざすは斑鳩の里。
秋風を楽しみながら、マイペースでぼちぼち走る。
生駒から龍田川にそって下ると法隆寺は近い。
どうせ無計画な一人旅。途中、斑鳩に近い平群町でぶらぶらした。
長屋王の墓500メートルの案内版にそって田舎道を走る。
道端の田んぼでは稲刈。そしてコスモス畑。のどかな空気が心地よい。
今度は、「椿井城跡」の案内板。
天空の城・竹田城跡は山城ブームに火をつけたらしく、椿井城跡も見学者の増加に伴い一部立ち入り制限中とある。
近所の人に、「何が残っていますか?」と聞くと「この辺の人は誰も行かない。私も行ったことがないから知らない」と返事。
自転車では途中の神社境内まで。ここから先がきつい。これが道か?というような斜面をただただ登るのである。おおよそ30~40分。
やっと着いたが・・・・・・・・・・・!!
「この辺の人は誰も行かない」に納得。
負け惜しみ・・・・・眺望は絶景なり。
平郡をあとにして斑鳩に向かう。
藤ノ木古墳
つづく
2013年9月13日
- ここまでやるかと思いながら
ここまでやるか?と思いつつ我が家の蛍光灯を修理した。
台所の手元灯が突然消えるようになった。
しばらくしてスイッチを入れ直すと点灯するが時間が経てばまた消える。
この繰り返しである。
蛍光灯やグロー球を交換したが直らない。
蛍光灯(器具)は単純な構造なので安定器の寿命以外に原因はない。
もう20年近くがんばった器具だから交換すれば事は済むのだが、廃棄するならその前に実験だ。
以前、廃棄する前にバラシておいた安定器を交換したら直るかも?しれない。
形は違うが規格は同じ20ワット用でピッタリ。ねじ穴は合わないがどうにかなる。
安定器を交換してスイッチON!!
直りました。これでまた10年ぐらいはいけるかな?
使えるものはとことん使ってやるぞ!
決意を新たに10年後にむけて、廃棄する器具から安定器を確保しておこう。
そこまでやるか!よーやるわ!と自分でも思う。
2013年9月6日
- ロボット掃除機
10年ほど前、ロボット掃除機を始めて見たとき、発想は面白いが実用性には疑問?と誰もが思ったと思う。
最近では、欲しい家電製品なかでロボット掃除機は上位だ。大人気商品である。
人気にあやかり、ルンバに続けと日本メーカーも参戦してきたそうだ。
セットさえしておけば勝手に掃除に出かけ、終われば元の位置まで戻ってくる。
会話までする機種も発売されているそうだ。
私の周りでも、Mさん宅や、Oさん宅にもあるそうだ。
Mさんは、動きがかわいくて思わず"ガンバレ”と励ましているそうだ。
家庭での話し相手は、『ねこ』と『ルンバ』だそうだ。もう単なる掃除機ではないのだ。
Oさんは、ルンバに活躍してもらうためにはロボットが動ける空間を作る必要があるので、先に掃除する必要がある掃除機だと評価。
いずれにしても、掃除ができるのだから第一目的は達成している。
数年前、バリアフリー展で、食事介助ロボットを見たとき、驚いたというより呆れたが、これも今では実用化され始めた。
ロボット技術の進歩には賞賛するのだが、やっぱりなにかさみしいなー!と思う。
こんな、へりくつを並べるから我が家には当分登場する事はないだろう。
『ただ、ケチなだけよ!』と、天から声が降って来た。
2013年8月28日
- T中さんの秘密・・・・・小さな暴露話
交野市にある○○センターに勤めるT中さんは愛煙家である。
大阪府社協の屋外喫煙所に着くなりカバンをモソモソ。
タバコを取り出し美味しそうに一服した。
その仕草からピーンときた。
わざわざカバンにタバコをいれて持ち歩くには訳がある。
確かめると、やっぱり喫煙は家庭内では内緒だそうである。
いくら隠しても、奥さんから時々タバコ臭いと言われるそうだ。
『一緒にいた○○さんがヘビースモーカーで臭いが付いた』とか言い訳をするそうだ。
家の近くで、ガマンできず一服してしまった時は、うがいをしっかりして玄関を開けるそうだ。
そこまでして吸うか?と、吸わない人なら誰でも思うだろう。
これが、病気なのである。
最近の話題で、日本禁煙学会なる団体が、映画の喫煙シーンがよくないと注文(要望書)をつけたそうだ。
これに対し、脳科学者の茂木健一郎さんがツイッターで
「禁煙を推進したい人は、自身で広報活動、Public Relationsに精を出せばよい。誰もそれを止めない。しかし、他人が作った映画の表現、違う時代の場面の描写にまで口を出す権利があると思うのは、勘違い。禁煙ファシズムだと言われても仕方がない」と糾弾。とあった。
よくぞ言ってくれた。
喫煙者なら同感である。
ここ数年、猛スピードで禁煙ファシズムが横行している。
東京、大阪などの個性の強い首長さんが先導した影響も大きい。
いつの時代もファシズムは正義の顔でやってくる。
そのうち、『未成年者が見ている場所では喫煙してはならない』と言い出すのかもしれない。
禁煙ファシズム反対同盟代表にT中さんを推薦したくなった。
(残念ながら2013年8月現在ではこんな団体はありません)
2013年8月26日
- ゲリラ豪雨
高槻市では、昨日(8月25日)(日)36万人の全市民を対象とした史上初の大防災訓練を市制施行70周年記念事業として実施することになっていた。市内120ヶ所もある避難所すべてを開設して市内全域で訓練を行うという大規模な訓練が予定だったが、あいにく当日は大雨洪水警報が発令されており中止となった。
我が家でも近所の人と連れ立って近くの避難所に行く予定をしていたのだが、残念。
それどころか、当日は皮肉にも近所では午前中の強雨で水路の水があふれガレージが水びたしの家庭もあった。
ニュースによると大阪梅田では道路が水没し大変だったようだ。
降らない雨。降るときは加減なしのゲリラ豪雨が日常的になってきた。
大地震に向けて備えることはもっともだが、ゲリラ豪雨対策は緊急性が高い。
対策はあるのか?
水路を大きくすればいいのだろうが一部分で済まないので容易なことではない。
本質は、人間の身勝手な効率主義が地球をいじめた事に起因しているのだろう。
大きな堤防を造るよりも、100年、200年先の時代に向けて、自然と共存する人間社会を造る智慧が必要だ。
大地の雨水吸収力、貯水力を無くす乱開発は止めよう。
コンクリートとアスファルトの都会は快適そうだが、雨にも猛暑にも弱い。
自然の道理に逆らわない行動を地球規模、全世界で早く手をつけないと手遅れになる。
地球は人間様だけのものではない。
改めて、原発なんてもってのほかだ。
2013年8月7日
- ながーい かぼちゃ
ホームページを毎日欠かさず訪問しているのに更新されてないと昨日M様からお叱りを受けた。
更新を続ける大変さを言い訳したのだが・・・・・・・・
真実はネタ探しに苦労しているのだ。何をやっても、何を言ってもネタ話になる奈良の○久保さんや、大阪のN西さんのような存在はそう多くない。
今、思いつくといえばこんなネタしかない。おもしろくもないが、だらだらと書いてみた。
昨年頂いたかぼちゃの種をとって今年蒔いたらすくすくと育ってきた。
大阪ではめったに見かけない南瓜だ。
ネットで調べたら、岐阜県高山市の特産品で、宿儺南瓜、(すくな かぼちゃ)というらしい。 長さは50〜80cmになるそうだ。
さっそく、長さを計測してみた。まだ40センチに満たない。
そろそろ収穫と思っていたが50センチを目標にしばらく見守ろう。
人間様は暑さに音を上げているが、かぼちゃ殿は元気!元気!
やっぱりおもしろくない。
2013年7月25日
- 烏合の衆の行く末
久しぶりに政治ネタでぼやきます。
なぜ、これほどまでに民主党は負けたのか?と評論家達が分析する。
答えは簡単らしい。民主党は、国民を裏切ったからだ。と一言。
やるといったことはやらなかった。やらないといった消費税増税をきめた。
だから、国民は民主党を信じなくなったのだ。と声をそろえる。
自民党の大勝利はアベノミクスが信任された!と安部首相は胸を張るが真の勝因は違うらしい。
民主党の期待はずれ、公約の裏切りが自民党を押し上げたのは間違いない。
大政党に有利な選挙制度も勝因の一つだ。
もともと、民主党は規律もなければ、統一されてもいない、政権交代という御旗に群れる、烏合の衆だった。
がやがや騒ぐだけで、一致のない集団が政権を担える筈がそもそもなかったのだ。
負けた責任を、だれかに押し付けても根本的解決にはならないのは明白だ。
政治の世界は学習能力がないのか?似たような話が、今尚、懲りずに進んでいる。
負けた野党がとにかく、一つになって政界再編を進めようとする主導権争いである。
烏合の衆の再結成である。民主党と同じ道だ。
政党は一貫した政策を持て。約束は守れ。
政治家は信念を貫け。選挙の度に政党を渡り歩く政治家はいらない。
もしかしたら、信念など元々ない政治家が増えているのかもしれない。
最後に、勝った自民党は、勝った時ほど謙虚に国民の声に耳を傾けて欲しい。
給料上がらず、物価はあがり続けている。
増税前の駆け込みで物は動いているが増税すればたちまち消費は落ち込む。
『消費税増税は待った!』これが国民の大多数の声だ
民主党も烏合の衆から卒業し、党内の声よりも国民の声に耳を傾けて欲しい。
2013年7月19日
- ミッシー君とその"なかま″達
早起きが定着してきた。
毎日6時ごろから1杯のコーヒーを飲みながら、庭先でごそごそする事が日課になった。
狭い玄関先にひな壇のように置いている鉢の野菜たちとのお話から1日が始まる。
ゴーヤはツルを誘引しながらメスの花びらを探し、オスの花びらをつまんで受粉させる。
胡瓜にはたっぷり水を与える。ししとうは食べごろのものを探す。
トマトには早く大きくなれよ!と励ます。
青じそ、バジル、オクラ、かぼちゃ、ピオーネ、・・・・・いつまでも長話が続く。
そして、夕食用の収穫作業(大げさですが)で朝のお話が終わる。
今朝の収穫は、これだ。あれー、ししとうに耳が付いている。
我が家では、ししとうだからミッシー君と名づけた。
今夜食べよう。
2013年7月2日
- これが噂の○○か?
日曜日、朝がさめると足の指先がすこし変だ。
時間がたてばおさまるだろうとあまり気にしなかった。が
昼過ぎ買い物に行ったら親指の間接あたりがイタタ。まともに歩けない。
その夜は痛みでまともに寝付けない。
翌朝、月曜日は最悪の状態。赤く腫れて痛みは最高潮。トイレまで歩くのがやっとの状態。
病院に行きたくとも、自力で行くことも出来そうにない。救急車なんて呼べるわけがない。
頓服飲んで、傷みが和らいだ瞬間を待って、バイクにまたがりやっと病院へ着いた。
原因は、『通風発作』だ。頓服と塗り薬をもらって帰ってきた
いままで、何回か通風発作を起こしているが、これ程の大発作は初めてだ。
『尿酸値が高い!』と言われてはいたが、これ程の激痛に繋がると本気で心配していなかった。
『尿酸値を下げる方法?』をネットで検索したら、しっかり水分をとって1日2ℓ以上排出する事が大切らしい。
どくだみ茶でも持ち歩こうかな!
アルコールの中では、ビールが一番よくないらしい。
今後は、焼酎を主役にしよう。と決意した。
どなたか、通風発作を治す方法を伝授して下さい。
2013年6月24日
- 食べちゃうぞ!
愛の点滴が利いてきた。
昨年は苗1本あたり収穫が10本だったが今年はもっと出来がいい様だ。
すでに、道行く人が立ち止まって見上げる程ゴーヤが大きく実ってきた。
食べちゃうぞ。
我が家は緑のカーテンづくりが目的ではない。
2013年6月18日
- 愛の点滴大作戦
6月なのに空を見上げると夏空だ。
雨が今日も降らない。
『梅雨入りした』と宣言したのは誰だ。責任者出て来い!などと言っても雨が降るわけでもない。
我が家のゴーヤも成長は早いが、仕事終えて帰宅したときは水切れで枯れそうだ。
鉢も日に照らされてアツー。
ダンボールで日除けを作ったが、通気性がよくないので一日で中止。
次にすだれ作戦。これは継続中。
加えて、水補給作戦。ペットボトルの口にトンガリキャップをつけ土に差し込んで置く方法は知られているが、水量が安定しない。さらにお日様で高温になった水は作物をいためる可能性があるので工夫が必要だと推測し採用しない事にした。
どうにかならんか!どうにかしよう!金をかけずに!わが人生はすべてここから始まる。
愛の点滴作戦開始。
①いらなくなったバケツに穴をあけてホースを通す。接続箇所はコーキング。
(ホースは昔金魚を飼っていた時の水槽用エアーホース)
②水量調整のための2又コック(これも水槽用)を途中にかます。
③バケツを吊り下げて、水をいれ水量を毎分60滴程度に調整すれば完成。
④試作品テスト。あれー一時間もしたら水滴が落ちていない。原因は、ごみがすぐ詰まるせいだ。
諦めず、あれこれ改良して2日間使用した。今度は安定して水滴が帰宅後も落ち続けている。大成功だ。
ホース先から毎秒約1滴の水滴が落ちます。 白いバケツが水タンク
それでも、雨よ降れ降れ雨よ降れ!だ。書き終えた頃から天気が怪しくなってきた。
明日は、久しぶりの雨かも?雨乞い神事よりこの「つぶやき」は効果があるのかもね。
2013年6月5日
- 期待に応えてつぶやいた
今日は、必ずこのページを見る人がいる。
何を書かれるか?と、ちょぴり不安を持ちながら。
久しぶりに再開できたこの方、N西さんである。
N西さんは、話題が豊富で、何をしても笑いが取れる人なので『つぶやき』で何度の登場していただいた。(本人の許可なしに)
ところが、昨年秋より体調を崩されて、定年を少し前に退職。
現在は治療に専念されているそうだ。
N西さんが登場しないとつぶやく事も半減。ネタきれ状態がつづいた。
今日(6月5日)は、数ヶ月前までN西さんの職場だった法人のお祝いの会が盛大催され再開できた。
『だいま、失業中』だそうだ。
カメラを向けると、今回も拒否された。
宴が始まると、アルコールは飲めません。と言いながらチビリチビリやっていた。
おいしそうに。
N西さんの辞書では、『アルコール』とは『アルコール』の事で『ビール』の事ではないようだ。
世間の常識よりもN西さんが正しい。
元気な(元気そうな)姿に会えて嬉しい一日になった。
2013年5月17日
- 5時の直帰と卵酒
15日(水曜日)の東京出張の帰宅頃から体調がおかしい。
咳はでるし、喉が痛い。寒気もする。
今月は中旬から末にかけ決算理事会の時期だ。絶対に寝込むわけにはいかない。
昨日(木)、17時前に翌日の会議(2つ)の欠席するとお詫びの連絡をした。
とにかく、早く帰宅し卵酒でも飲んで体調を整える戦術をとった。
5時を待って、タイムカード打って、事務所の面々に事情をのべて帰宅する事を告げた。
皆やさしく気遣ってくれた?ような気はした。
最後に、Sさんが『まっすぐ帰りなさい』と、間髪無しにトドメの一言。
一言を遵守するつもりでいたのだが、・・・・・・
途中で日本酒をきらしている事に気がついた。
『まっすぐ帰る』つもりだったのだが理由がりゆうなのでしかたない。
Sさんの忠告守らず酒買った。卵酒飲んだ。すぐ寝た。少しはましになった。
今夜も卵酒。今夜もすぐ寝る。
2013年5月4日
- 明日は何処へ
連休は何処まで自転車で走ろうか?と悩んでいた。
M尾さんから5月3日に奈良までガイドで行くと聞いた。
奈良に決定だ。
5月3日快晴。午前8時前出発。枚方から交野。岩船街道を登り生駒、富雄川に沿って下る。
10時半ごろ西の京に到着。わかくさと同業の『たんぽぽの家』の車が走っていた。
薬師寺、唐招提寺沿いに自転車道を北に向かい3条通りを走りJR奈良駅に着く。
奈良町をウロウロしながらガイド組の到着を待った。
お昼前に合流。大仏おにぎりを買って興福寺を見ながらお弁当。
大仏おにぎりはソフトボールぐらいの大きさだ。
これが、結構おいしいので、小柄のガイドのTさんでもペロリだ。
昼食を済まして別行動。別れの言葉は『給料をあげて』だった。
右の写真は平城京で。
2013年3月22日
- 4月からの総合支援法施行を目前にして
長年の鉄の船が錆付いてきたからと、木の舟に乗った。
木の船は、長持ちしないからと、次に用意されたのが泥舟だった。
船が沈没しないように何度も修繕しながら水をかき出しながら7年間乗ってきた。
裁判にまでなって泥舟の廃船を決定し、新船の設計を乗る人たちに任した。
しかし、完成した設計書はお蔵入りになった。
期限がきたので、カンバンだけは付け替えて、泥舟を固め直して船出した。
今年4月からの「障害者総合支援法」の船出である。
「措置から契約へ」耳障りのいい言葉で障害者福祉の激変がはじまった。
支援費制度、自立支援法、総合支援法、わずか10年余りで3度目の法改正である。
さらに、4月から施行される障害者総合支援法では多くの重要課題が法施行後3年目途の検討事項に先送りされているから着地点も闇の中だ。
これほど朝命暮改の筋の通らないコロコロ変わる制度は他にはどこにもない。
利用者も事業者も地方自治体も振り回され続けている。
関係者がまとめあげた『骨格提言』にたどりつくにはさらなる時間も努力もいるようだ。
最近の出来事でも、これだけはいいたい。
グループホームでの火災事故だ。現在の制度では、夜間に職員を配置しなくてもよい。配置されていても殆どのホームが1名だ。
火災通報装置、スプリンクラーなどの設置基準をいくら変えようと、避難できる条件はマンパワー以外にない。「人命を守れない」こんな貧弱な制度を見過ごしていけない。
予見できる事故に必要な手立てを打っていない事は国家の重大過失ではなかろうか。
2013年3月1日
- 箸墓古墳は卑弥呼の墓か?
少し前の2月半ば、奈良県桜井市にある箸墓古墳が話題になった。
箸墓古墳を始め宮内庁が陵墓として管理している900あまりの古墳は非公開のため普段は立ち入る事が出来ない。
現地を訪ねてみたら、前方部(鍵穴の下)の中心に鳥居があり説明には倭迹迹日百襲姫命陵墓・・・と書いている。箸墓古墳とは何処にも書いていなかった。
今回、話題になったには、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説がある同古墳を宮内庁が異例の立ち入り調査を認めた点だった。
もしや、邪馬台国大和説の裏づけや卑弥呼に関して大発見があるかも?などと期待する報道もあった。
私も、ワクワクした1人だが、立ち入りが出来たのはわずか16人で1時間半。墳丘の最下段を一周する散歩が許されただけだった。
これで調査といえるの?と思うのだが・・・・・。これでも、ニュースになるほど宮内庁は陵墓の調査を認めていないという事らしい。
陵墓の発掘が無制限にできるなら、邪馬台国研究など古代史の研究が一気に進展する事になるのだが事は簡単ではないらしい。
皇室関係の墓は特別か否か?国民的合意はどちらの側にも未だないようだ。
一方で、築造年代等から茨木市の継体天皇陵(宮内庁指定)など指定そのものが誤っているといわれる古墳もたくさんある。これらは、そろそろ全面公開すべき時期が来ていると思うのだが。
2013年2月3日
- 飛鳥寺西方遺跡
奈良県明日香村で遺跡発掘現地説明会が開催された。
臨時のバス停から遺跡までは田んぼ道を抜けるとすぐだ。
畦道を、皆、急ぐこともなくだらだらと歩く。
日々の息の詰まるような空間から抜け出し、飛鳥の風、香り、光を全身であびている。
今回の見学会は、『大化の改新』の舞台だと云われている『板葺の宮』の北、飛鳥寺のすぐ西の田んぼである。
飛鳥寺の西一帯を飛鳥寺西方遺跡と呼ぶようである。
発掘現場は、藤原鎌足と中大兄皇子が蹴鞠をしながら入鹿暗殺を相談した場所『槻の木の広場』推測地。
発掘調査で広範囲の石敷きが見つかり日本書紀の記述を裏づけたと報道された。
1400年前の飛鳥が土の中から飛び出してくる。
飛鳥はえーなー。
2013年1月25日
- 電話が不通になった
先日、職場が11時ごろから突然、電話とインターネットの不通状態が3時間近く続いた。
ネットだけならコードの接続を確認や、パソコン、ルーター、ハブなどの電源をリセットすればたいがいが復旧できる。
今回は電話も不通。素人業では無理だ。
NTTに問い合わせても原因不明。回線はお宅まではつながっているという。
NTTでは現場を見なくとも遠隔操作で確認できるらしい。
発生後、約2時間過ぎた頃に原因が判明。
少し先の民家の解体現場での断線事故だった。
NTTの『お宅まではつながっている!』は、一時的な接続状態だったのだろう。
不通となった3時間あまりは携帯電話でやりくりしたので大きな支障はなかった。
今回の不通が携帯回線だったら大騒ぎになった人も多かろう。
職場のM尾さんみたいにスマートホォンに取り付かれている人はそうなる。
宝物のごとくスマートフォンを持ち歩く人が増えてきた。
いつも、そばにないと不安になるらしい。
まわりはどうあれ、私は今の携帯でいい。本音は携帯もいらない。
だって、追い立てられる電話以外かかって来る事はまず無いから。
2013年1月1日
- 我が家のLED
新年おめでとうございます。
今年も、のんびり、気ままに“つぶやき”ます。
LADの照明器具は売れ筋家電の1つだそうだ。しかしまだ値が高い。
それなら自作してみようと思った。
構造は、いたって簡単。
電球ソケットを並列で5個つないで吊るすだけである。
電球以外は、廃材で足りる。
木材で枠を作り、ソケットを固定し結線した。
電球型の蛍光灯2つとLED電球2つ、プラス常夜灯を装着してイザ点灯。
LED自体を発光させるには乾電池2本(直流3V)程度でいいらしいが、LEDの電球は一般家庭用交流100Vのソケットで使えるようにするために口金近くに変換アダプターを詰め込んでいるので妙に重い。
寿命は10年間というのはあやしそうだ。たしかにLEDは壊れないだろうが内蔵のアダプターが先に壊れるだろう。安価で売られている品は粗悪な変換アダプターを使用しているのだろうからなおさらだ。
現在のLED照明器具は構造的に無理が多く万能ではない。さらに改良された電球が発売される日は近いと思う。
我が家のLED化は、試作品の評判を聞いて考えようと思っていたが、反応は『呆れた顔』だけだった。

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